予想落札価格は800万円以上からと人気の1台
2024年5月31日〜6月1日にRMサザビーズがカナダ・トロントで開催したオークションにおいてメッサーシュミット「KR200」が出品されました。1962年式の同車は、前オーナーによってフルレストアされ、コンクールコンディションに仕上がっていました。
若き航空エンジニアのフリッツ・フェンドが開発したのがはじまり
第2次世界大戦後敗戦国となったドイツは、連合軍の管理下に置かれ未来永劫戦争を起こせないように工業地帯であるルール地方の工業施設を解体し、併せて連合国が占領した西ドイツをさらに2つの国家に分断するという計画が持ち上がっていた。
この提案をしたのは当時アメリカの財務長官の座にあったヘンリー・モルゲンソーJr。1945年から1946年にかけては、ドイツの製造業には厳しい統制が課されており、このため、民間の車両製造並びに航空機製造は禁止されていたのである。
大戦中若き航空エンジニアとして活躍したフリッツ・フェンドは、航空機の開発ができないとなると、今度は傷痍軍人のための車両開発に乗り出す。とはいえ車両製造は出来ない。そこで、フリッツはこの車両をあくまでも移動補助(モビリティ・エイド)として開発し、いわゆる汎用の輸送手段(ジェネラル・トランスポーテーション)ではないという裏技を使い、制限を回避することに成功した。
この移動手段は彼自身がフリッツァーと名付け、1948年に完成した。搭載していたエンジンは航空機のスターターだった。この種の小型3輪車としてはかなりの成功をもたらし、フェンドの作ったローゼンハイムの工場は1年間に150台ものフリッツァーを生産したが、すでに生産能力は限界に達していた。この間に車両生産の統制が解かれ、晴れて車両の製造ができるようになるのだが、そうは言ってもその生産施設がない。
そこで、フリッツ・フェンドは同じ航空機デザイナーであり、製造者であったヴィリー・メッサーシュミットに掛け合い、彼が所有していたレーゲンスブルグの工場でフェンドの開発した3輪自動車の生産をすることで合意した。「KR175」と名付けられた3輪自動車は1953年のジュネーブショーにてデビュー。しかし多くの問題も見つかり、デビューイヤーですでに70カ所もの設計変更が行われたという。
メッサーシュミットのキャノピーが戦時中の戦闘機に似ていたことから、機体の一部を流用して作られたというようなことが言われたこともあるが、それは都市伝説。戦闘機メッサーシュミットの工場で作られたことが名前の由来である。1955年になるとクルマは大改良を受け、「KR200」へと発展する。