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「ピットサイン」の考案者はメルセデスの名監督「ノイバウアー」だった…「雨天の名手カラッチオラ」との友情のはじまりとは

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TEXT: 妻谷裕二(TSUMATANI Hiroji)  PHOTO: Mercedes-Benz AG/妻谷コレクション(TSUMATANI Collection)

  • カラッチオラとノイバウアー
  • メルセデス・タルガ・フローリオのレーシングカーのハンドルを握るアルフレッド・ノイバウアー(3位)と設計したフェルディナンド・ポルシェ博士(写真右)
  • 若きルドルフ・カラッチオラ
  • 雨天の名手ルドルフ・カラッチオラ
  • ルドルフ・カラッチオラはメルセデス・ベンツ モデルKを駆り、1926年のクラウゼンパス・ヒルクライムレースと国際ゼンメリングレースで優勝した
  • アルフレッド・ノイバウアーは1926年からメルセデス・ベンツのレース監督を務めた
  • アルフレッド・ノイバウアーは1926年からメルセデス・ベンツのレース監督を務めた
  • 1926年7月11日、雨の第1回ドイツGPでルドルフ・カラッチオラが優勝した。写真はゼッケン14の白いメルセデス・ベンツのハンドルをルドルフ・カラッチオラが握り優勝。コ・ドライバーはザルツァー
  • アルフレッド・ノイバウアー監督(写真右)とルドルフ・カラッチオラ

名監督と名ドライバーの約30年続いた物語

メルセデス・ベンツのモータースポーツを語るうえで、名監督アルフレッド・ノイバウアーと名ドライバー、ルドルフ・カラッチオラの関係性はとても重要です。そこで、両者の関係についてじっくりと解説していきます。今回は、ノイバウアーとカラッチオラの出会いについてです。

強力タッグで輝かしい記録を残してきた

メルセデス・ベンツのモータースポーツ史における、偉大な監督アルフレッド・ノイバウアーと雨天の名手であったドライバーのルドルフ・カラッチオラとの厚い友情物語は、1924年に2人が出会ってから1952年にルドルフ・カラッチオラが2度目の大事故によりレースで走ることができなくなるまで続いた。ちなみにアルフレッド・ノイバウアーもメルセデスのレーサーであったが、レーサーとしてよりもレース管理能力に優れ、1926年にメルセデス・ベンツの偉大なレース監督となっている。

一方、ルドルフ・カラッチオラは1920年から1950年代にかけて活躍したメルセデス・ベンツのもっとも偉大なレーシングドライバー。レントゲンの目を持つとも言われ、雨のレースにめっぽう強く「雨天の名手」と呼ばれた。つねにアルフレッド・ノイバウアー監督の指示通りラップスピードを正確に守って走り、1930年代にヨーロッパ・ドライバーズチャンピオンの座に3回もなり(1935年・1937年・1938年)、ヨーロッパ・ヒルクライムチャンピオンを3回連続(1930年・1931年・1932年)で獲得したのだ。

ノイバウアーとカラッチオラの最初の出会い

1924年10月、モンツァのイタリアGPプラクティス。アルフレッド・ノイバウアーはスタートし、レズモのカーブへ約180km/hのスピードで突進した。マシンはポルシェ博士が設計した2L直列8気筒DOHC、スーパーチャジャー付き160psのメルセデスレーシングカーである。

コ・ドライバーのヘミンガーは横から、ちょっとビクついてアルフレッド・ノイバウアーを見た。すでに彼らは直線コースに入った。そのとき、メルセデスのリアが横揺れを始めており、アルフレッド・ノイバウアーはそれを防ぐことができず、メルセデスはスピンしてしまった。その直後、恐ろしい衝撃が襲う。土塊と石がノイバウアーの耳のまわりに降ってきたのだ。

それから物音ひとつしなくなったあと、慎重にノイバウアーは目を開けた。すると、彼らは観客を守るために積み上げられた土嚢の頂点にいた。クルマはガソリンタンクを支点に揺れており、彼らはまったく動くことができなかった。そうしないとクルマがひっくり返ってしまうからであった。

5分後に救急隊が到着し、開口一番、ダイムラー工場長であるヤコブ・クラウスがノイバウアーに向かって、

「あなたは生きている内に記念碑を建てるつもりですか?」

と笑って言ったそう。ノイバウアーは遠くの方で、ニヤニヤ笑っている青年を見た。この青年こそ、ルドルフ・カラッチオラであった。ノイバウアーはこのカラッチオラにレズモのカーブをベテランがどう走るのかを教えてやろうとしていたのだった。

長年、ノイバウアーは有名なレーシングドライバーになることを夢みてきたが、あきらめた。なぜなら、ウィーン近郊で開催されたゼメリングレースで、ノイバウアーはうまくコーナリングすることができないと悟り、そしてモンツァのアクシデント以降は恐怖を感じるようになってしまったからである。ノイバウアーは将来、この若いスプリンターたちにこの曖昧な楽しみを任せてみよう、そしてレーサーたちの面倒をみるのがいいと自分自身で納得したのだ。

ノイバウアー

この若いスプリンターたちの中にルドルフ・カラッチオラが含まれており、彼はドレスデンの販売部門で働き、週末はレースに出ることが許されていた。ノイバウアーはレーシングドライバーとしてのキャリアは終えたが、このカラッチオラのような青二才が成功してメダルを集めるということはしゃくに障った。ほかのベテランたち、オットー・メルツ、そしてクリスチャン・ヴェルナーなども嫉妬していた。彼らはこの若者をひどい目に合わせてやろうと待ち構え、そのチャンスがやってきた。

それは1925年夏、ドイツ帝国のロベルト・バッチャリレースであった。スタートの数週間前、すでに“古ギツネたち”の軍事会議が行われた。ディレクターのザイラー、テストエンジニアのナーリンガー、そしてノイバウアーは額を寄せ合い相談していた。ザイラーは、マシンを4台投入し、ドライバーとして4人を申告すると決めた。ノイバウアーは、

「第4番目は誰か?」

と尋ねた。ザイラーは、

「カラッチオラだ、彼は6Lのレーシングカーに乗ることになるだろう」

と返事した。ノイバウアーは「ざまぁーみろ」と思う気持ちのあまり、もみ手をした。つまり、重い6Lカーは4Lよりも速いが、そのかわり規定のポイント評価では非常に不利であったからだ。

バッチャリレースのスタート前、カラッチオラとノイバウアーは同じホテルの部屋に泊まった。カラッチオラは18時間、止めどもなく眠った。それから彼は目が覚め、そしてたったひと言、「ミルク」と言った。ルドルフ・カラッチオラは朝、ミルクなしでは生きられないのだ。ノイバウアーは「ミルク・ベビー」とつぶやき、ルームウェイターのベルを鳴らした。カラッチオラは何かぶつぶつ言いながらも満足げに飲み干し、さらに24時間眠り続けた。

そしてレースでは、カラッチオラは彼ら“古ギツネ”よりも総じて速く走り、ノイバウアーらは、がっかりさせられるのであった。なんとこの“ミルク・ベビー”はノイバウアーらよりも1車身リードし優勝したのだ! そこで、ノイバウアーはレース経験をベースにした管理を徹底的に行うことにした。

こうして、ルドルフ・カラッチオラの生涯の経歴がスタートしたのである。名前はすぐに全世界に知れ渡ったが、彼のいかなる勝利にも信頼の厚いアルフレッド・ノイバイアーが関与していた。つまり、友人として、コーチとして、そして1926年に就任したメルセデス・ベンツのレース監督として。

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