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「ピットサイン」の考案者はメルセデスの名監督「ノイバウアー」だった…「雨天の名手カラッチオラ」との友情のはじまりとは

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TEXT: 妻谷裕二(TSUMATANI Hiroji)  PHOTO: Mercedes-Benz AG/妻谷コレクション(TSUMATANI Collection)

ルドルフ・カラッチオラは雨の第1回ドイツGPレースで優勝

定規で引いたように、ドイツのサーキット「アヴス」はベルリンの緑の森を分断していた。北の幅広いカーブ、南の狭いカーブ、その間の2kmの長い直線、それは世界で最も速いレースコースであった。

1926年7月11日、アヴスは初めて一大センセーションを巻き起こした。雨の第1回ドイツGPに41台ものマシンが参加したのであった。ゼッケン14の白いメルセデス・ベンツはルドルフ・カラッチオラがハンドルを握ることに。この白いメルセデス・ベンツは、ポルシェ博士が1924年のモンツァ以後も開発を続けた2L直列8気筒DOHC 4バルブ、スーパーチャジャー付き160psレーシングカーであった。

23万人の観客がコースに人垣を築く。家やバスの屋根に、木の枝の上もビッシリと混んだ。スタートのフラッグが降ろされ、マシンがトップチェッカーを目指して一斉に飛び出した。しかし、ルドルフ・カラッチオラの白いメルセデス・ベンツはエンジンが止まったままで動かなかった。「降りろ!」とカラッチオラはコ・ドライバーのザルツァーに怒った。「押すのだ!」と。

数秒が過ぎたそのとき、ついにエンジンが掛かる。すぐザルツァーはシートに飛び乗った。最後のスタートになったこのメルセデス・ベンツは後を追い上げていくが、1分間はロスしていた。そして、レース中、激しい雨が降り始めてくる。

1926年当時、ピットとドライバー間でやり取りする、決められた合図などがまだ無かった。カラッチオラは自分がどのポジションにいるのか、そして素晴らしいコースレコードを樹立したことも知らなかった。加えて、すでに数人の人気ドライバーがマシントラブルや事故のため、リタイアしていたことすらも知らなかった。

カラッチオラが再度ピット前を通過するとき、ディレクターのザイラーが1本の指を出した。最終ラップの合図である。これが、カラッチオラがレース中に受けた唯一の合図であった。彼は人々が手を振り、帽子を飛ばし、またハンカチを振っているのを見た。どうしたというのだ? とカラッチオラは思った。

そしてついに、白黒のチェッカーフラッグが振られた。ダイムラーの設計者・ポルシェ博士が大急ぎでやってきた。

「優勝だ! われわれが勝ったのだ。ルディ、君はすごい奴だ!」

と歓声をあげた。つまり、カラッチオラはこの最初のGPレースで優勝し、「雨天の名手」という評判を得るとともに、一流レーサーのひとりとして躍進したのだ。

ドイツ・グランプリで優勝

お祝いを言っている人垣を押し分けて、ひとりの愛らしい女性が皆の見ている前でこの勝利者に抱きついた。彼女の名前はシャルロッテ・リーゼンで、皆は“シャルリー”とだけ呼んでいた。カラッチオラは以前からこの女性を知っており、前年の1925年にドレスデンで開催された秋の見本市のときからシャルリーに惚れ込んでいた。その後、すぐ2人は結婚することになっており、スイスのルガーノの近くに家を建てることも決まっていた。

加えて、ルドルフ・カラッチオラはメルセデス・ベンツ「モデルK」を駆り、1926年のクラウゼンパス・ヒルクライムレースと国際ゼンメリングレースで優勝したのだった。

【ルドルフ・カラッチオラ】

1901年1月30日にレマーゲンで生まれ、1959年9月28日に西ドイツのカッセルで死去、逝年58歳。彼は1920年から1950年代にかけて活躍したメルセデス・ベンツのもっとも偉大なレーシングドライバーで、レントゲンの目を持つとも言われ、雨のレースにめっぽう強く「雨天の名手」(ドイツ語でRegenmeister:レーゲンマイスター)ともいわれた。

つねにアルフレッド・ノイバウアー監督の指示通り、ラップスピードを正確に守って走った。コーナーのクリッピング・ポイントは5cmと狂わず、何回サーキットを回っても同じ軌跡をトレースして走ったという伝説すらある。優れたコーナリングテクニックと、時計のように正確で、しかもつねに冷静でクルマを巧みにコントロールするドライビングスタイルの持ち主。

その優勝歴は149回に及び、レーシングカーでヨーロッパ・ドライバーズチャンピオンの座に3回もなり(1935年・1937年・1938年)、ヨーロッパ・ヒルクライムチャンピオンに3年連続(1930年・1931年・1932年)で輝いた。レース活動引退後の1956年からはメルセデス・ベンツの特別販売活動に大いに貢献した。

【アルフレッド・ノイバウアー】

メルセデス・ベンツの「偉大なレース監督」として伝説化している。1891年3月29日にモラヴィア・ノイディトシャイン(現在のチェコ)に生まれ、1980年8月22日ネッカル川沿いアルディンゲンの自宅で死去、逝年89歳。メルセデスのレーサーであったが、レーサーよりもレース管理能力に優れ、1926年にメルセデス・ベンツのレース監督となった。

レース状況やドライバーが取るべき戦術判断を小旗や信号板、指の合図でドライバーに伝達する「ピットサイン」を初めて考案した。彼はピットの中では厳格であり、勇気と沈着性を持ち合わせ、レースにかける情熱は並々ならぬものであった。

そして最高の統率力で管理運営し、各状況に適した戦術でメルセデス・ベンツのレース監督として数多くの勝利を手中にした。総計160レースに参戦し監督を務め、その半数以上となる84勝を挙げている。レースを離れればじつに優しい好人物で誰からも愛され、美術の愛好家でもあった。レース活動引退後はメルセデス・ベンツミュージアムの館長に就任。7年間奉職してメルセデス・ベンツの名車収集および広報活動を活発に行った。加えて、自伝の執筆やレースの歴史に関する講演活動なども実施した。

■参考文献:”Männer, Frauen und Motoren”, Alfred Neubauer, 1953

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  • 妻谷裕二(TSUMATANI Hiroji)
  • 妻谷裕二(TSUMATANI Hiroji)
  • 1949年生まれで幼少の頃から車に興味を持ち、40年間に亘りヤナセで販売促進・営業管理・教育訓練に従事。特にメルセデス・ベンツ輸入販売促進企画やセールスの経験を生かし、メーカーに基づいた日本版のカタログや販売教育資料等を制作。またメルセデス・ベンツの安全性を解説する独自の講演会も実施。趣味はクラシックカー、プラモデル、ドイツ語翻訳。現在は大阪日独協会会員。
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