名監督と名ドライバーの約30年続いた物語
メルセデス・ベンツのモータースポーツを語るうえで、名監督アルフレッド・ノイバウアーと名ドライバー、ルドルフ・カラッチオラの関係性はとても重要です。そこで、両者の関係についてじっくりと解説していきます。今回は、ノイバウアーとカラッチオラの出会いについてです。
強力タッグで輝かしい記録を残してきた
メルセデス・ベンツのモータースポーツ史における、偉大な監督アルフレッド・ノイバウアーと雨天の名手であったドライバーのルドルフ・カラッチオラとの厚い友情物語は、1924年に2人が出会ってから1952年にルドルフ・カラッチオラが2度目の大事故によりレースで走ることができなくなるまで続いた。ちなみにアルフレッド・ノイバウアーもメルセデスのレーサーであったが、レーサーとしてよりもレース管理能力に優れ、1926年にメルセデス・ベンツの偉大なレース監督となっている。
一方、ルドルフ・カラッチオラは1920年から1950年代にかけて活躍したメルセデス・ベンツのもっとも偉大なレーシングドライバー。レントゲンの目を持つとも言われ、雨のレースにめっぽう強く「雨天の名手」と呼ばれた。つねにアルフレッド・ノイバウアー監督の指示通りラップスピードを正確に守って走り、1930年代にヨーロッパ・ドライバーズチャンピオンの座に3回もなり(1935年・1937年・1938年)、ヨーロッパ・ヒルクライムチャンピオンを3回連続(1930年・1931年・1932年)で獲得したのだ。
ノイバウアーとカラッチオラの最初の出会い
1924年10月、モンツァのイタリアGPプラクティス。アルフレッド・ノイバウアーはスタートし、レズモのカーブへ約180km/hのスピードで突進した。マシンはポルシェ博士が設計した2L直列8気筒DOHC、スーパーチャジャー付き160psのメルセデスレーシングカーである。
コ・ドライバーのヘミンガーは横から、ちょっとビクついてアルフレッド・ノイバウアーを見た。すでに彼らは直線コースに入った。そのとき、メルセデスのリアが横揺れを始めており、アルフレッド・ノイバウアーはそれを防ぐことができず、メルセデスはスピンしてしまった。その直後、恐ろしい衝撃が襲う。土塊と石がノイバウアーの耳のまわりに降ってきたのだ。
それから物音ひとつしなくなったあと、慎重にノイバウアーは目を開けた。すると、彼らは観客を守るために積み上げられた土嚢の頂点にいた。クルマはガソリンタンクを支点に揺れており、彼らはまったく動くことができなかった。そうしないとクルマがひっくり返ってしまうからであった。
5分後に救急隊が到着し、開口一番、ダイムラー工場長であるヤコブ・クラウスがノイバウアーに向かって、
「あなたは生きている内に記念碑を建てるつもりですか?」
と笑って言ったそう。ノイバウアーは遠くの方で、ニヤニヤ笑っている青年を見た。この青年こそ、ルドルフ・カラッチオラであった。ノイバウアーはこのカラッチオラにレズモのカーブをベテランがどう走るのかを教えてやろうとしていたのだった。
長年、ノイバウアーは有名なレーシングドライバーになることを夢みてきたが、あきらめた。なぜなら、ウィーン近郊で開催されたゼメリングレースで、ノイバウアーはうまくコーナリングすることができないと悟り、そしてモンツァのアクシデント以降は恐怖を感じるようになってしまったからである。ノイバウアーは将来、この若いスプリンターたちにこの曖昧な楽しみを任せてみよう、そしてレーサーたちの面倒をみるのがいいと自分自身で納得したのだ。
この若いスプリンターたちの中にルドルフ・カラッチオラが含まれており、彼はドレスデンの販売部門で働き、週末はレースに出ることが許されていた。ノイバウアーはレーシングドライバーとしてのキャリアは終えたが、このカラッチオラのような青二才が成功してメダルを集めるということはしゃくに障った。ほかのベテランたち、オットー・メルツ、そしてクリスチャン・ヴェルナーなども嫉妬していた。彼らはこの若者をひどい目に合わせてやろうと待ち構え、そのチャンスがやってきた。
それは1925年夏、ドイツ帝国のロベルト・バッチャリレースであった。スタートの数週間前、すでに“古ギツネたち”の軍事会議が行われた。ディレクターのザイラー、テストエンジニアのナーリンガー、そしてノイバウアーは額を寄せ合い相談していた。ザイラーは、マシンを4台投入し、ドライバーとして4人を申告すると決めた。ノイバウアーは、
「第4番目は誰か?」
と尋ねた。ザイラーは、
「カラッチオラだ、彼は6Lのレーシングカーに乗ることになるだろう」
と返事した。ノイバウアーは「ざまぁーみろ」と思う気持ちのあまり、もみ手をした。つまり、重い6Lカーは4Lよりも速いが、そのかわり規定のポイント評価では非常に不利であったからだ。
バッチャリレースのスタート前、カラッチオラとノイバウアーは同じホテルの部屋に泊まった。カラッチオラは18時間、止めどもなく眠った。それから彼は目が覚め、そしてたったひと言、「ミルク」と言った。ルドルフ・カラッチオラは朝、ミルクなしでは生きられないのだ。ノイバウアーは「ミルク・ベビー」とつぶやき、ルームウェイターのベルを鳴らした。カラッチオラは何かぶつぶつ言いながらも満足げに飲み干し、さらに24時間眠り続けた。
そしてレースでは、カラッチオラは彼ら“古ギツネ”よりも総じて速く走り、ノイバウアーらは、がっかりさせられるのであった。なんとこの“ミルク・ベビー”はノイバウアーらよりも1車身リードし優勝したのだ! そこで、ノイバウアーはレース経験をベースにした管理を徹底的に行うことにした。
こうして、ルドルフ・カラッチオラの生涯の経歴がスタートしたのである。名前はすぐに全世界に知れ渡ったが、彼のいかなる勝利にも信頼の厚いアルフレッド・ノイバイアーが関与していた。つまり、友人として、コーチとして、そして1926年に就任したメルセデス・ベンツのレース監督として。
ルドルフ・カラッチオラは雨の第1回ドイツGPレースで優勝
定規で引いたように、ドイツのサーキット「アヴス」はベルリンの緑の森を分断していた。北の幅広いカーブ、南の狭いカーブ、その間の2kmの長い直線、それは世界で最も速いレースコースであった。
1926年7月11日、アヴスは初めて一大センセーションを巻き起こした。雨の第1回ドイツGPに41台ものマシンが参加したのであった。ゼッケン14の白いメルセデス・ベンツはルドルフ・カラッチオラがハンドルを握ることに。この白いメルセデス・ベンツは、ポルシェ博士が1924年のモンツァ以後も開発を続けた2L直列8気筒DOHC 4バルブ、スーパーチャジャー付き160psレーシングカーであった。
23万人の観客がコースに人垣を築く。家やバスの屋根に、木の枝の上もビッシリと混んだ。スタートのフラッグが降ろされ、マシンがトップチェッカーを目指して一斉に飛び出した。しかし、ルドルフ・カラッチオラの白いメルセデス・ベンツはエンジンが止まったままで動かなかった。「降りろ!」とカラッチオラはコ・ドライバーのザルツァーに怒った。「押すのだ!」と。
数秒が過ぎたそのとき、ついにエンジンが掛かる。すぐザルツァーはシートに飛び乗った。最後のスタートになったこのメルセデス・ベンツは後を追い上げていくが、1分間はロスしていた。そして、レース中、激しい雨が降り始めてくる。
1926年当時、ピットとドライバー間でやり取りする、決められた合図などがまだ無かった。カラッチオラは自分がどのポジションにいるのか、そして素晴らしいコースレコードを樹立したことも知らなかった。加えて、すでに数人の人気ドライバーがマシントラブルや事故のため、リタイアしていたことすらも知らなかった。
カラッチオラが再度ピット前を通過するとき、ディレクターのザイラーが1本の指を出した。最終ラップの合図である。これが、カラッチオラがレース中に受けた唯一の合図であった。彼は人々が手を振り、帽子を飛ばし、またハンカチを振っているのを見た。どうしたというのだ? とカラッチオラは思った。
そしてついに、白黒のチェッカーフラッグが振られた。ダイムラーの設計者・ポルシェ博士が大急ぎでやってきた。
「優勝だ! われわれが勝ったのだ。ルディ、君はすごい奴だ!」
と歓声をあげた。つまり、カラッチオラはこの最初のGPレースで優勝し、「雨天の名手」という評判を得るとともに、一流レーサーのひとりとして躍進したのだ。
お祝いを言っている人垣を押し分けて、ひとりの愛らしい女性が皆の見ている前でこの勝利者に抱きついた。彼女の名前はシャルロッテ・リーゼンで、皆は“シャルリー”とだけ呼んでいた。カラッチオラは以前からこの女性を知っており、前年の1925年にドレスデンで開催された秋の見本市のときからシャルリーに惚れ込んでいた。その後、すぐ2人は結婚することになっており、スイスのルガーノの近くに家を建てることも決まっていた。
加えて、ルドルフ・カラッチオラはメルセデス・ベンツ「モデルK」を駆り、1926年のクラウゼンパス・ヒルクライムレースと国際ゼンメリングレースで優勝したのだった。
【ルドルフ・カラッチオラ】
1901年1月30日にレマーゲンで生まれ、1959年9月28日に西ドイツのカッセルで死去、逝年58歳。彼は1920年から1950年代にかけて活躍したメルセデス・ベンツのもっとも偉大なレーシングドライバーで、レントゲンの目を持つとも言われ、雨のレースにめっぽう強く「雨天の名手」(ドイツ語でRegenmeister:レーゲンマイスター)ともいわれた。
つねにアルフレッド・ノイバウアー監督の指示通り、ラップスピードを正確に守って走った。コーナーのクリッピング・ポイントは5cmと狂わず、何回サーキットを回っても同じ軌跡をトレースして走ったという伝説すらある。優れたコーナリングテクニックと、時計のように正確で、しかもつねに冷静でクルマを巧みにコントロールするドライビングスタイルの持ち主。
その優勝歴は149回に及び、レーシングカーでヨーロッパ・ドライバーズチャンピオンの座に3回もなり(1935年・1937年・1938年)、ヨーロッパ・ヒルクライムチャンピオンに3年連続(1930年・1931年・1932年)で輝いた。レース活動引退後の1956年からはメルセデス・ベンツの特別販売活動に大いに貢献した。
【アルフレッド・ノイバウアー】
メルセデス・ベンツの「偉大なレース監督」として伝説化している。1891年3月29日にモラヴィア・ノイディトシャイン(現在のチェコ)に生まれ、1980年8月22日ネッカル川沿いアルディンゲンの自宅で死去、逝年89歳。メルセデスのレーサーであったが、レーサーよりもレース管理能力に優れ、1926年にメルセデス・ベンツのレース監督となった。
レース状況やドライバーが取るべき戦術判断を小旗や信号板、指の合図でドライバーに伝達する「ピットサイン」を初めて考案した。彼はピットの中では厳格であり、勇気と沈着性を持ち合わせ、レースにかける情熱は並々ならぬものであった。
そして最高の統率力で管理運営し、各状況に適した戦術でメルセデス・ベンツのレース監督として数多くの勝利を手中にした。総計160レースに参戦し監督を務め、その半数以上となる84勝を挙げている。レースを離れればじつに優しい好人物で誰からも愛され、美術の愛好家でもあった。レース活動引退後はメルセデス・ベンツミュージアムの館長に就任。7年間奉職してメルセデス・ベンツの名車収集および広報活動を活発に行った。加えて、自伝の執筆やレースの歴史に関する講演活動なども実施した。
■参考文献:”Männer, Frauen und Motoren”, Alfred Neubauer, 1953