ノイバウアーが提案した新たな参戦プランとは?
カラッチオラはこの1928年に約10万マルクを手に入れ、28歳の若者にとってはひと財産であった。さらに、1929年8月17日にはベルファスト近郊のインターナショナル・ツーリスト・トロフィーで、カラッチオラはメルセデス・ベンツ SSで優勝、1930年8月9日から10日に開催されたクラウゼン・パス・ヒルクライムレースで、カラッチオラはメルセデス・ベンツ SSKを駆って優勝している。
1930年の終わりには世界経済危機の雪崩がレーシングドライバーにも押し寄せた。ある朝、ルドルフ・カラッチオラのもとにウンタートルクハイムのダイムラー・ベンツ社より書留郵便が届く。つまり、彼はレーシングドライバー契約の解雇通知を受けたのだった。
ダイムラー・ベンツ社のゼネラルディレクターである、キッセル博士との話し合いの中でもこの件に関して変更はなかった。カラッチオラの妻シャルリーはウンタートルクハイムへ彼と同伴し、そして、申し出た。
「たとえメルセデスに乗れなくなったとしても、私たちは走り続けることができるわ!」
カラッチオラは苦笑いをし、どうするんだ? と聞いた。シャルリーは
「簡単なことよ、私たちは自分たちのクルマとしてアルファ ロメオを1台購入して、そして自費で走るのよ」
と答えた。ノイバウアーは急に声を荒らげながら立ち上がり、
「なんだって、カラッチオラがイタリアのクルマに乗るなんて、それは考えられないことだ!」
と叫んだ。
「親愛なるドン・アルフレッド、メルセデスがまったくレースに出ないからといって、あなたは私に今日・明日にでも職を辞めさせることはできないんだ」
そう言って、カラッチオラは部屋を出ていった。
ルドルフ・カラッチオラがイタリアの赤くて速い小型車に乗って走ることを考えると、ノイバウアーは納得できず、ずっと机に座っていなければならなかった。そして、ノイバウアーは知恵を絞ってやっとのこと、ある作戦を考えた。
ノイバウアーはカラッチオラにウンタートルクハイムに来るように頼み込み、そして新しい形式のレース契約プランを彼に見せた。
「われわれがメカニックやコ・ドライバーとレ-ス監督を用意し、トランスポート、修理、タイヤ、燃料といったすべての経費を負担する。君はすべての賞金、割増金、出場料を受け取る。そのかわり、君は1台のクルマ、SSKを2万マルクの特別価格で買わなければならないが……」
この日、1930年の冬にルドルフ・カラッチオラのレーシングチームが誕生した。このチームはカラッチオラ本人と彼の妻シャルリー、コ・ドライバーのヴィルヘルム・セバスチャン、メカニックのツィンマー、そしてレース監督のノイバウアーというメンバーで成り立っていた。
ひとつのことが彼らの間で、はっきりとしていた。つまり、次のシーズンは以前よりも大激戦となることが予想され、ルドルフ・カラッチオラは全世界のレース・エリートたちに対し、ひとりで立ち向かって走らなければならないのだ。もし、彼が日射病で倒れたとしても、クリスチャン・ヴェルナーは彼と交替することができず、加えてオットー・メルツはペースメーカーとして働いてくれず、相手をやっつけてくれることはないのであった。
【ルドルフ・カラッチオラ】
1901年1月30日にレマーゲンで生まれ、1959年9月28日に西ドイツのカッセルで死去、逝年58歳。彼は1920年から1950年代にかけて活躍したメルセデス・ベンツのもっとも偉大なレーシングドライバーで、レントゲンの目を持つとも言われ、雨のレースにめっぽう強く「雨天の名手」(ドイツ語でRegenmeister:レーゲンマイスター)ともいわれた。
つねにアルフレッド・ノイバウアー監督の指示通り、ラップスピードを正確に守って走った。コーナーのクリッピング・ポイントは5cmと狂わず、何回サーキットを回っても同じ軌跡をトレースして走ったという伝説すらある。優れたコーナリングテクニックと、時計のように正確で、しかもつねに冷静でクルマを巧みにコントロールするドライビングスタイルの持ち主。
その優勝歴は149回に及び、レーシングカーでヨーロッパ・ドライバーズチャンピオンの座に3回もなり(1935年・1937年・1938年)、ヨーロッパ・ヒルクライムチャンピオンに3年連続(1930年・1931年・1932年)で輝いた。レース活動引退後の1956年からはメルセデス・ベンツの特別販売活動に大いに貢献した。
【アルフレッド・ノイバウアー】
メルセデス・ベンツの「偉大なレース監督」として伝説化している。1891年3月29日にモラヴィア・ノイディトシャイン(現在のチェコ)に生まれ、1980年8月22日ネッカル川沿いアルディンゲンの自宅で死去、逝年89歳。メルセデスのレーサーであったが、レーサーよりもレース管理能力に優れ、1926年にメルセデス・ベンツのレース監督となった。
レース状況やドライバーが取るべき戦術判断を小旗や信号板、指の合図でドライバーに伝達する「ピットサイン」を初めて考案した。彼はピットの中では厳格であり、勇気と沈着性を持ち合わせ、レースにかける情熱は並々ならぬものであった。
そして最高の統率力で管理運営し、各状況に適した戦術でメルセデス・ベンツのレース監督として数多くの勝利を手中にした。総計160レースに参戦し監督を務め、その半数以上となる84勝を挙げている。レースを離れればじつに優しい好人物で誰からも愛され、美術の愛好家でもあった。レース活動引退後はメルセデス・ベンツミュージアムの館長に就任。7年間奉職してメルセデス・ベンツの名車収集および広報活動を活発に行った。加えて、自伝の執筆やレースの歴史に関する講演活動なども実施した。
■参考文献:”Männer, Frauen und Motoren”, Alfred Neubauer, 1953