ブランドの創造者、チャールズ・スチュワート・ロールズ卿
ロールス・ロイスは創業120周年を迎える2024年、ブランドを語るうえで重要な人物についてフォーカスを当てて紹介しています。今回紹介するのは1877年8月27日生まれのチャールズ・スチュワート・ロールズ名誉会長です。彼は先駆的なレーシングドライバー、気球乗り、飛行家、そして本格的なエンジニアであり、革新者でしたが、その数多くの功績は、悲劇的な生涯の短さを際立たせています。短い生涯を駆け抜けたチャールズ・スチュワート・ロールズ卿がどんな人物だったのかご紹介しましょう。
生まれ持ったエンジニアの素質と、陸上速度記録を樹立した才能
チャールズ・スチュワート・ロールズ卿は1877年8月27日、ランガトック卿夫妻の3男として生まれた。出生地はロンドンのバークレー・スクエアの外れにあるヒル・ストリート35番地と登録されていたが、彼の心は常に一族の先祖代々の地、ウェールズとイングランドの国境にあるモンマス・シャーのヘンドレにあった。
エンジニアリングに対する彼の適性と熱意が最初に芽生えたのはこの地だった。9歳のとき、彼は寝室と厩舎の間に電気ベルを設置した。数年後、彼は母屋に電気を設置することを計画し、それを実施。その後の彼のキャリアで大いに役立つことになる説得力をここでも発揮し、彼は父であるランガトック卿にその費用を負担させたという。
ケンブリッジのトリニティ・カレッジで機械工学と応用科学を学んだロールズは、輸入ヨーロッパ車を常にいじっていたことから、学部生仲間から「ダーティ・ロールズ」という不名誉な(しかしおそらく正確な)あだ名をつけられた。学位取得後、彼はすぐにレーシングドライバーとして名を馳せ、最初のレースである1899年のパリ~ブローニュ間で4位に入賞した。その4年後、34人のドライバーと観客が犠牲になった運命のパリ~マドリード・レースにも出場した。同年、彼は80HPのモルスで時速83マイル(約134km/h)という非公式ながら陸上速度記録を樹立することとなる。
「世界で最も偉大なモーター・エンジニア」との運命の出会い
ロールズが人生でもうひとつの大きな情熱を傾けたのは飛行機だった。彼はロイヤル・エアロ・クラブの創設メンバーであり、当初は気球乗りとして170回以上の飛行経験を有していた。1907年に初めて動力飛行船に乗ったときのことを、彼は「生きる価値のあるもの、それは空の征服だった」と語っている。1910年には、英仏海峡をノンストップで往復した史上初のパイロットとなり、国王ジョージ5世から直々に祝辞を贈られ、ある新聞社からは「当代随一の英雄」と賛辞を贈られた。
しかし、ロールズが生計を立てるために選んだ道は自動車だった。1902年1月、彼は西ロンドンのフルハムにイギリス初の自動車ディーラーのひとつ、C.S.ロールズ社をオープンし、フランス製のパナールやモルス、ベルギー製のミネルバを輸入販売した。自動車はよく売れたが、イギリス国産車が顧客のニーズにも、経験豊かなエンジニアであり生涯の愛好家であった彼自身の基準にも合わないことに、ロールズは頭を悩ませていた。
ロールズの幅広い交友関係の中に、グレートブリテン&アイルランド自動車クラブ(後のロイヤル・オートモービル・クラブ)を通じて知り合ったヘンリー・エドマンズがいた。エドマンズはロイス・リミテッドの株主であり、ヘンリー・ロイスが設計・製造した同社の初期のロイス「10HP」に大きな感銘を受け、1000マイル(約1600km)の試験走行に参加したことがあった。
それは、今にして思えば必然のように思える偶然の瞬間のひとつだった。エドマンズは、ロイス10HPがまさにロールズが求めていた高品質の英国製自動車であることに気づいたのだ。彼の熱意に押されたロールズは、ロイスとの面会を求め、エドマンズは1904年5月4日、マンチェスターのミッドランド・ホテルでの面会を実現させた。ロンドンに戻ったロールズは、ビジネス・パートナーであり、後にロールス・ロイスのマネージング・ディレクターとなるクロード・ジョンソンに、「世界で最も偉大なモーター・エンジニア」を見つけたこと、そしてロイスが作ることができるすべてのクルマを販売することを熱弁した。