世界屈指の高級車メーカーとして確固たる地位を築いた
ロールズは、適切な時期に、適切な場所で出現した適切な人物だった。熟練のエンジニアであり、自動車を熟知したエンスージアストであった彼は、政治、産業、メディア、さらには王族にまで幅広い人脈を持つ敏腕ビジネスマンでもあった。彼の頭の回転の速さは、ロールス・ロイスとその自動車を広めるためのマーケティングと広報の重要性を即座に把握した。有名な話だが、彼はエンジンをかけたまま、ラジエターの上にコップ一杯の水を載せてバランスをとり、一滴もこぼれないときの聴衆の反応を楽しみながら、シルバー・ゴーストの洗練さを実演してみせた。
1910年までには、ロールス・ロイスは世界屈指の高級車メーカーとして確固たる地位を築いていたが、当初の工場は手狭となり、1908年7月にダービーに工場を開設することとなった。フラッグシップ・モデルの40/50HP「シルバー・ゴースト」は、一連の過酷な長距離トライアルで圧倒的なパフォーマンスを発揮し、高い人気を誇っていた。この時期は、2003年のグッドウッド時代の幕開けまで、経験したことのないほどの驚異的な革新、拡大、商業的成功の時代であった。
並外れた偉業を遺して32歳の若さで世を去った
そして1910年7月12日、すべてが変わってしまった。海峡横断の成功から2カ月も経たないうちに、ボーンマスで開催された飛行競技会に参加していたロールズのライト・フライヤーの尾翼が破損してしまったのだ。機体は地面に落下し、スパーとキャンバスが絡み合った状態で墜落した。そしてロールズは現場で死亡が確認されることとなる。彼は史上12人目の飛行事故死者であり、動力飛行機で命を落とした最初のイギリス人であった。このとき彼はまだ32歳の若さだった。
チャールズ・スチュワート・ロールズ名誉会長は、優れた技術的頭脳と大胆な冒険心を兼ね備えていた。彼にとって飛行機と自動車が、強力な魅力を持っていたことは不思議なことではなく、両分野における真のパイオニアであった。彼が短い生涯でこれだけのことを成し遂げたことは、並外れたことであり、実際、彼がもっと長生きしていたらどれだけのことが成し遂げられただろうかと考えずにはいられない。
120年後を予言していた⁉︎
また、彼は他の誰もが気づかないことを見抜く生来の能力を持ち、その先見性は1900年に『モーターカー・ジャーナル』誌に寄稿した記事に完全に表現されている。
「電気自動車は完全にノイズレスでクリーンだ。においも振動もなく、固定式の充電ステーションができれば、非常に便利になるはずだ。しかし、今のところ、私は電気自動車がすぐに実用的になるとは思っていない。少なくとも、何年もかかるだろう」
実際、それから120年の時間がかかったが、ロールス・ロイス初の全電気自動車である「スペクター」の発表によって、この言葉は予言的であったことが証明された。
彼の残した遺産、すなわち大胆さ、想像力、そして常に大きく考え、より遠くへ進み、かつてないことに挑戦しようとする願望は、今日もなお、彼の名を冠した会社の中心で力強く、活力を与え続けている。
1世紀以上経った今も、ウェストサセックス州グッドウッドにあるロールス・ロイスの本拠地では、彼の想像力と勇気が生き続けている。
AMWノミカタ
あるレポートによると、アメリカの化学者ウィリアム・モリソンの発明により1890年頃に最初の電気自動車がデビューしたという。彼が開発した最高時速14マイル(約23km/h)の6人乗り自動車は、電化されたワゴンにすぎなかったが、人々の電気自動車への関心を高めるきっかけとなった。
その後数年の間に、さまざまな自動車メーカーの電気自動車がアメリカ全土で登場するようになり、ニューヨークでは60台以上の電気タクシーが走っていたらしい。1900年までには、電気自動車は全盛期を迎え、道路を走る全車両の約3分の1を占めるようになった。その後10年間、電気自動車は好調な売れ行きを示し続けたという。
チャールズ・スチュワート・ロールズ卿が『モーターカー・ジャーナル』誌に寄稿したのはまさにその時期であるが、生粋のエンジニアである彼は、当時の電気自動車の問題点と優位点をかなり具体的に把握していたと思われる。その後、電気自動車は衰退し、ロールズの求める「完璧」な電気自動車を生み出すまでに120年の歳月が必要だった。ロールス・ロイス初の電気自動車であるスペクターは彼の残した意志が引き継がれ生まれた作品に違いない。
■出典:”The History of the Electric Car”, U.S. Department of Energy
https://www.energy.gov/articles/history-electric-car