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「ミッレ・ミリア」で初めて勝利した外国人ドライバー「ルドルフ・カラッチオラ」…ベンツからアルファに移籍して襲った大事故からの彼の運命は…!?

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TEXT: 妻谷裕二(TSUMATANI Hiroji)  PHOTO: Mercedes-Benz AG/妻谷コレクション(TSUMATANI Collection)

  • ブレシアをスタートしたカラッチオラ
  • 1931年の「ミッレ・ミリア」。ブレシアをスタートしたカラッチオラとコ・ドライバーのセバスチャンは、メルセデス・ベンツSSKL(ゼッケン87)でラティコサ峠を横断
  • ブレシアをスタートしたカラッチオラとコ・ドライバーのセバスチャンは、メルセデス・ベンツSSKL(ゼッケン87)でラティコサ峠を横断
  • メルセデス・ベンツSSKLに乗ったルドルフ・カラッチオラがゴールし優勝した。このイタリアのミッレ・ミリアの歴史で、初めて外国人がイタリア勢を打ち負かした
  • 左のソフト帽を被ったレース監督アルフレッド・ノイバウアーからお祝いの言葉を受ける優勝したルドルフ・カラッチオラ、中央にはコ・ドライバーのセバスチャン
  • メルセデス・ベンツSSKLは、とくに軽量化のためシャシーに軽減孔を設けた
  • メルセデス・ベンツSSKLは、とくに軽量化のためシャーシに軽減孔を設けた
  • メルセデス・ベンツSSKLは、とくに軽量化のためシャシーに軽減孔を設けた
  • 1933年11月、シュツットガルトのダイムラー・ベンツ社で1934年からスタートの新しい750kgフォーミュラのレーシングカー、W25が完成した
  • 1933年11月、シュツットガルトのダイムラー・ベンツ社で1934年からスタートの新しい750kgフォーミュラのレーシングカー、W25が完成した
  • 1933年11月、シュツットガルトのダイムラー・ベンツ社で1934年からスタートの新しい750kgフォーミュラのレーシングカー、W25が完成した
  • アルフレッド・ノイバウアー監督(右)とルドルフ・カラッチオラ(左)
  • 1931年4月11日、ミッレ・ミリアのブレシアをスタートするシーン。メルセデス・ベンツSSKL(ゼッケン87)に乗るカラッチオラとコ・ドライバーのセバスチャン。ステアリングを握るカラッチオラの横に立っているのは妻のシャルリー。反対側のセバスチャンの横でソフト帽を被っているのがノイバウアー監督。メカニックのツィンマーを入れて、たった5人のメルセデス・ベンツレーシングチームで戦った
  • 1933年11月、シュツットガルトのダイムラー・ベンツ社で1934年からスタートの新しい750kgフォーミュラのレーシングカー、W25が完成した
  • ルドルフ・カラッチオラは、ミッレ・ミリアレースで勝利を収めた。中央にはカラッチオラ、右隣には妻のシャルリー、その隣にはレース監督のアルフレッド・ノイバウアーがいる

激動の世界情勢にも巻き込まれていく

メルセデス・ベンツのモータースポーツを語るうえで、名監督アルフレッド・ノイバウアーと名ドライバー、ルドルフ・カラッチオラの関係性はとても重要です。そこで、両者の関係についてじっくりと解説していきます。今回は、カラッチオラを襲った悲劇について紹介します。

ミッレ・ミリアの勝利

1931年4月11日にブレッシア全土が熱狂した。当地でヨーロッパの最も過酷なレース「ミッレ・ミレア」がスタート。ルドルフ・カラッチオラのメルセデス・ベンツレーシングチームは初めての大試練が待ち受けていた。カラッチオラと彼の妻シャルリー、コ・ドライバーのヴィルヘルム・セバスチャン、メカニックのツィンマー、そしてレース監督としてのノイバウアーのわずか5人で戦わなければならなかった。

レースは時間との戦いであった。クルマは3分間隔でスタート。重たいクルマは午後遅くに初めてスタートする。偉大な人気者であるヌボラーリ、カンパーリ、そしてバルツィだ。この偉大なドライバーたちに対し、唯一のドイツ人ドライバーであるカラッチオラはドイツ車のメルセデス・ベンツ「SSKL」(ゼッケン87)で戦った。

このSSKL(ドイツ語Super Sport Kurzes Leicht Fahrgestell=スーパー・スポーツ・ショート・ライトシャシー)は、とくに軽量化のためシャシーに軽減孔を設けた。そして軽量のSSKLはチューニングも300psまで発展し、最高速は240km/hを出した。

カラッチオラの妻シャルリーはノイバウアー監督に向かってこう言った。

「私たちはクラブへ行ってグラスを傾けましょう。ルディ(カラッチオラの愛称)の勝利を祝ってね」

クラブには報告が続々と集まってきた。ボローニャから報告が届き、室内はシーンと静まり返った。スピーカーが鳴り響く。

「ドイツ人のルドルフ・カラッチオラがメルセデス・ベンツで5分のリードを築きトップを走っています」

それからシャルリーとノイバウアーは待った。2時間が過ぎた後、シエナから報告が入った。アナウンサーはまさに喜びのあまり歓声をあげていた。

「お知らせします。たった今、ヌボラーリがここに着きました。次いでカンパーリが到着。カラッチオラはまだ見えません」

メルセデス・ベンツチームのスタッフたちは、後でカラッチオラがエキゾーストパイプの破損で10分間止まってしまい、耐え忍んでいたことを聞き知った。

地獄は続いた。気力の無くなったカラッチオラはレース中盤にして、文字どおりヤケッパチになっていた。彼の目はどんよりとして動かなくなり、彼の頭はどんどん垂れ下がっていった。

「気をつけろ、ちょっと脇へ寄れ」

とコ・ドライバーのセバスチャンがわめく。カラッチオラは体を最も外側へとずらし、セバスチャンはその後に続いて体をずらす。今や、彼らはいっしょにステアリングを握っていた。

冷静なドライビングで劇的勝利

ボローニャの後は、ほとんど直線でメルセデス・ベンツSSKLの得意とするところだ。カラッチオラは再びクルマから最大のパワーを引き出した。彼の前にはアルカンジェリ、カンパーリ、ボルザッキーニの3台のアルファ ロメオが走っていた。彼らはヘッドライトを相互に使うため横に並んでいたのであった。

道路は長い直線の後、少しカーブになっていた。以前、この道路はもっとまっすぐになっていたのだが、イタリア人たちが大通りの樹木がこれまでとは違う方向を示しているのに気が付いたのは、あまりにも遅すぎた。彼らは140km/hのスピードで旧道の凹部に突進し、カラッチオラは正しい道路を走り去った。

すると突然、道路沿いに人影が現れた。腕を振り回しながら飛び出してきたのだ。狂人か? カラッチオラはブレーキをかけた。

「止まれ、フリドリンのわれわれの燃料補給基地だ」

とコ・ドライバーのセバスチャンがびっくりしてわめいた。

「おめでとう、トップだよ!」

とメカニックは彼らに言った。その間、シャルリーとノイバウアーはブレシアの市場にいた。最後の瞬間まで、悪いことがなければカラッチオラは今にも着くはずであった。

カラッチオラたち

寝不足で青ざめたシャルリーは、ノイバウアーの横で石垣にもたれかかっていた。7時22分、水平線上に銀白色の点が浮かび上がり、だんだんとこちらに向かって大きくなってきた。10秒後にメルセデス・ベンツSSKLに乗ったルドルフ・カラッチオラがゴールに突入した。このマンモスレースの歴史の中で、初めて外国人がイタリア勢を打ち負かしたのだった。

彼らは1931年に数多くの勝利を納め成果を得た。つまり、カラッチオラは賞金、割増金、出場料合わせ合計18万マルクを手に入れた。

しかし、時代はすぐ変わってしまう。1932年にはどこにも参戦することができなかった。ドイツ帝国の失業や暴動などの影響で、ダイムラー・ベンツ社はレーシングスポ-ツをさらに押し進めることが不可能となったのだ。

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