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「ミッレ・ミリア」で初めて勝利した外国人ドライバー「ルドルフ・カラッチオラ」…ベンツからアルファに移籍して襲った大事故からの彼の運命は…!?

ブレシアをスタートしたカラッチオラ

1931年4月11日、ミッレ・ミリアのブレシアをスタートするシーン。メルセデス・ベンツSSKL(ゼッケン87)に乗るカラッチオラとコ・ドライバーのセバスチャン。ステアリングを握るカラッチオラの横に立っているのは妻のシャルリー。反対側のセバスチャンの横でソフト帽を被っているのがノイバウアー監督。メカニックのツィンマーを入れて、たった5人のメルセデス・ベンツレーシングチームで戦った

激動の世界情勢にも巻き込まれていく

メルセデス・ベンツのモータースポーツを語るうえで、名監督アルフレッド・ノイバウアーと名ドライバー、ルドルフ・カラッチオラの関係性はとても重要です。そこで、両者の関係についてじっくりと解説していきます。今回は、カラッチオラを襲った悲劇について紹介します。

ミッレ・ミリアの勝利

1931年4月11日にブレッシア全土が熱狂した。当地でヨーロッパの最も過酷なレース「ミッレ・ミレア」がスタート。ルドルフ・カラッチオラのメルセデス・ベンツレーシングチームは初めての大試練が待ち受けていた。カラッチオラと彼の妻シャルリー、コ・ドライバーのヴィルヘルム・セバスチャン、メカニックのツィンマー、そしてレース監督としてのノイバウアーのわずか5人で戦わなければならなかった。

レースは時間との戦いであった。クルマは3分間隔でスタート。重たいクルマは午後遅くに初めてスタートする。偉大な人気者であるヌボラーリ、カンパーリ、そしてバルツィだ。この偉大なドライバーたちに対し、唯一のドイツ人ドライバーであるカラッチオラはドイツ車のメルセデス・ベンツ「SSKL」(ゼッケン87)で戦った。

このSSKL(ドイツ語Super Sport Kurzes Leicht Fahrgestell=スーパー・スポーツ・ショート・ライトシャシー)は、とくに軽量化のためシャシーに軽減孔を設けた。そして軽量のSSKLはチューニングも300psまで発展し、最高速は240km/hを出した。

カラッチオラの妻シャルリーはノイバウアー監督に向かってこう言った。

「私たちはクラブへ行ってグラスを傾けましょう。ルディ(カラッチオラの愛称)の勝利を祝ってね」

クラブには報告が続々と集まってきた。ボローニャから報告が届き、室内はシーンと静まり返った。スピーカーが鳴り響く。

「ドイツ人のルドルフ・カラッチオラがメルセデス・ベンツで5分のリードを築きトップを走っています」

それからシャルリーとノイバウアーは待った。2時間が過ぎた後、シエナから報告が入った。アナウンサーはまさに喜びのあまり歓声をあげていた。

「お知らせします。たった今、ヌボラーリがここに着きました。次いでカンパーリが到着。カラッチオラはまだ見えません」

メルセデス・ベンツチームのスタッフたちは、後でカラッチオラがエキゾーストパイプの破損で10分間止まってしまい、耐え忍んでいたことを聞き知った。

地獄は続いた。気力の無くなったカラッチオラはレース中盤にして、文字どおりヤケッパチになっていた。彼の目はどんよりとして動かなくなり、彼の頭はどんどん垂れ下がっていった。

「気をつけろ、ちょっと脇へ寄れ」

とコ・ドライバーのセバスチャンがわめく。カラッチオラは体を最も外側へとずらし、セバスチャンはその後に続いて体をずらす。今や、彼らはいっしょにステアリングを握っていた。

冷静なドライビングで劇的勝利

ボローニャの後は、ほとんど直線でメルセデス・ベンツSSKLの得意とするところだ。カラッチオラは再びクルマから最大のパワーを引き出した。彼の前にはアルカンジェリ、カンパーリ、ボルザッキーニの3台のアルファ ロメオが走っていた。彼らはヘッドライトを相互に使うため横に並んでいたのであった。

道路は長い直線の後、少しカーブになっていた。以前、この道路はもっとまっすぐになっていたのだが、イタリア人たちが大通りの樹木がこれまでとは違う方向を示しているのに気が付いたのは、あまりにも遅すぎた。彼らは140km/hのスピードで旧道の凹部に突進し、カラッチオラは正しい道路を走り去った。

すると突然、道路沿いに人影が現れた。腕を振り回しながら飛び出してきたのだ。狂人か? カラッチオラはブレーキをかけた。

「止まれ、フリドリンのわれわれの燃料補給基地だ」

とコ・ドライバーのセバスチャンがびっくりしてわめいた。

「おめでとう、トップだよ!」

とメカニックは彼らに言った。その間、シャルリーとノイバウアーはブレシアの市場にいた。最後の瞬間まで、悪いことがなければカラッチオラは今にも着くはずであった。

寝不足で青ざめたシャルリーは、ノイバウアーの横で石垣にもたれかかっていた。7時22分、水平線上に銀白色の点が浮かび上がり、だんだんとこちらに向かって大きくなってきた。10秒後にメルセデス・ベンツSSKLに乗ったルドルフ・カラッチオラがゴールに突入した。このマンモスレースの歴史の中で、初めて外国人がイタリア勢を打ち負かしたのだった。

彼らは1931年に数多くの勝利を納め成果を得た。つまり、カラッチオラは賞金、割増金、出場料合わせ合計18万マルクを手に入れた。

しかし、時代はすぐ変わってしまう。1932年にはどこにも参戦することができなかった。ドイツ帝国の失業や暴動などの影響で、ダイムラー・ベンツ社はレーシングスポ-ツをさらに押し進めることが不可能となったのだ。

カラッチオラを襲った大事故

カラッチオラは仕方なく1932年にアルファ ロメオに移った。1933年4月21日、モナコGP前のプラクティスでの出来事である。あと1周。それで走行は終了だった。

カラッチオラは海沿いのトンネルのカーブを走行した。短い直線、そして、ゆるやかなカーブが続く。彼は軽くブレーキを踏んだが、なんとペダルがゆるんでおりブレーキが利かなかった。クルマは120km/hのスピードでカーブに突入。カラッチオラは素早くシフトレバーを握り、ギアダウンをした。4速、3速……。エンジンは唸り、トランスミッションからはガリガリと音がした。

クルマは路面の上をスライドスリップし、頑丈な街灯柱にダイレクトにぶち当たった。白のストライプの入ったブルーの車両がピット前で止まった。同じレースを戦うルイ・シロンである。彼は真っ青であった。

「ルディはどうしたの?」

とシャルリーが尋ねた。

「あぁ、ちょっとした事故で何でもない。彼はでっぱりにぶつかったんだ、恐らくブレーキの故障だ。彼は街灯にぶつかり、病院に運ばれたよ」

カラッチオラは手術台で動けなくなっていた。彼の右大腿は充血。医者は診察した結果、この男は再びレースで走ることはできないだろうと判断を下した。

以前はアルファのレース監督を務めていたジョバンニーニが病院へ来た。

「私はモナコの骨接ぎ屋を全く信用していない、盲腸をマンモスの牙と区別することすらできないんだ。しかし、私はボローニャの専門医をよく知っている。彼に来てもらって診てもらうのがいい」

と彼はカラッチオラに話をした。24時間後にボローニャから専門医のプッティ博士がモナコに着いた。

「博士、私の将来は危険にさらされています。私の人生はレースで走れなければ価値がないんです」

とカラッチオラは医者に一生懸命頼んだ。プッティ博士は肩をすくめ、

「私は魔術師ではない。しかしできる限りのことはする。ボローニャの私の病院へ来なさい」

と言った。そして数カ月後、カラッチオラが再び歩く日が来た。シャルリーに支えられ、慎重に杖をついた。一歩一歩が彼には耐えがたかった。しかし、骨は持ちこたえ、腰は補強しなくて済んだ。ただ偉大なレーシングドライバー、ルドルフ・カラッチオラの右足が左足より5cm短くなってしまった。

1932年10月、フランスに本拠を置くA.I.A.C.R.(現在のFIAに当たる国際公認自動車クラブ協会)が1934年から1936年までの新しいGPフォーミュラマシンを発表し、重量は750kg以下に規定した。1933年11月、シュツットガルトのダイムラー・ベンツ社で新しい750kgフォーミュラのレーシングカー「W25」が完成し、カラッチオラとノイバウアーは再会した。

「ハロー、ルディ、元気になったのか?」

とノイバウアーは言った。カラッチオラは、

「できるさ、絶対にできるんだ!」

と返事した。しかし、ノイバウアーは、

「残念ながら、ルディ、君がレース中に気力を無くさないっていう保証はあるのかい?」

と言った。そのとき、シャルリーは立ち上がり、

「ノイバウアーさん、あなたが自慢するクルマが故障しないという保証はありますか?」

と怒ったのだった。カラッチオラはノイバウアーの友人であることには変わりはない。しかし、何百万マルクという大金が新しいクルマに投資されている。それが1人の不完全なドライバーによって、すべての労力をムダにする可能性もあった。

しかし、「いいだろう!」とノイバウアーは言った。そして、

「われわれは君と契約をしよう。しかし、この契約は君の最初のテスト走行後でないと効力を発揮しないということだ」

と付け加えた。ノイバウアーはルドルフ・カラッチオラとの長い友人関係において、初めて亀裂が生じたと思った。

【ルドルフ・カラッチオラ】

1901年1月30日にレマーゲンで生まれ、1959年9月28日に西ドイツのカッセルで死去、逝年58歳。彼は1920年から1950年代にかけて活躍したメルセデス・ベンツのもっとも偉大なレーシングドライバーで、レントゲンの目を持つとも言われ、雨のレースにめっぽう強く「雨天の名手」(ドイツ語でRegenmeister:レーゲンマイスター)ともいわれた。

つねにアルフレッド・ノイバウアー監督の指示通り、ラップスピードを正確に守って走った。コーナーのクリッピング・ポイントは5cmと狂わず、何回サーキットを回っても同じ軌跡をトレースして走ったという伝説すらある。優れたコーナリングテクニックと、時計のように正確で、しかもつねに冷静でクルマを巧みにコントロールするドライビングスタイルの持ち主。

その優勝歴は149回に及び、レーシングカーでヨーロッパ・ドライバーズチャンピオンの座に3回もなり(1935年・1937年・1938年)、ヨーロッパ・ヒルクライムチャンピオンに3年連続(1930年・1931年・1932年)で輝いた。レース活動引退後の1956年からはメルセデス・ベンツの特別販売活動に大いに貢献した。

【アルフレッド・ノイバウアー】

メルセデス・ベンツの「偉大なレース監督」として伝説化している。1891年3月29日にモラヴィア・ノイディトシャイン(現在のチェコ)に生まれ、1980年8月22日ネッカル川沿いアルディンゲンの自宅で死去、逝年89歳。メルセデスのレーサーであったが、レーサーよりもレース管理能力に優れ、1926年にメルセデス・ベンツのレース監督となった。

レース状況やドライバーが取るべき戦術判断を小旗や信号板、指の合図でドライバーに伝達する「ピットサイン」を初めて考案した。彼はピットの中では厳格であり、勇気と沈着性を持ち合わせ、レースにかける情熱は並々ならぬものであった。

そして最高の統率力で管理運営し、各状況に適した戦術でメルセデス・ベンツのレース監督として数多くの勝利を手中にした。総計160レースに参戦し監督を務め、その半数以上となる84勝を挙げている。レースを離れればじつに優しい好人物で誰からも愛され、美術の愛好家でもあった。レース活動引退後はメルセデス・ベンツミュージアムの館長に就任。7年間奉職してメルセデス・ベンツの名車収集および広報活動を活発に行った。加えて、自伝の執筆やレースの歴史に関する講演活動なども実施した。

■参考文献:”Männer, Frauen und Motoren”, Alfred Neubauer, 1953

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