スーパースターへ昇り詰める
23歳になる頃には、大谷は人気選手となり、新しい所属先を選ぶことができた。そこでMLBで二刀流選手としての地位を確立したいと考え、ロサンゼルス・エンゼルスを選んだ。
この新加入選手がチームの他のメンバーとなじむのにそれほど時間はかからなかった。彼らは彼を親しみやすく、謙虚で、ユーモアのある人物と評価した。野球界最大の舞台での彼の新たな冒険は、最初は波乱に富んだものだったが、エンゼルスの信頼は揺るぎなく、異なるゲームに慣れる時間を彼に与えてくれた。
彼は試合ごとに成長し、自分のスキルを発揮し、シーズンの終わりには「新人王」に選ばれた。しかし怪我に見舞われ、2年間戦線離脱を余儀なくされた。懐疑論者からは一発屋と呼ばれたが、彼自身は決して希望を失わなかった。
「日本には懐疑論者がたくさんいました。でも、プレッシャーに対処することを学びました」
と大谷はいう。そして完全回復して試合に復帰すると、彼は本来の実力を発揮することができた。それ以上の怪我をすることなく、大谷は二刀流の選手として名を馳せ、シーズンの終わりには米国でもMVPに選ばれた。彼は満場一致でタイトルを獲得した初の日本人選手となった。
そして2023年に再び満場一致で受賞したとき、彼はリーグ史上初めてタイトルを複数回獲得した選手となった。同年、この絶対的なスーパースターは、野球のプロのためのオリンピックのような大会であるワールドベースボールクラシックで母国を優勝に導いた。決勝では、ディフェンディングチャンピオンの米国と対戦し、最後の球で大谷はエンゼルスのチームメイトで米国のキャプテンであるマイク・トラウト選手を三振に打ち取り、試合を終わらせた。3対2で勝利し、2006年と2009年に続いて3度目の世界選手権のタイトルを獲得した。
「人生で最高の瞬間です」
と大谷は試合後に語った。
世界最高の野球選手が語ったこと
大谷が2023年後半に移籍する計画を発表すると、入札プロセスが再開された。米国では球団のことをフランチャイズと呼んでいるが、大谷の価値は、すでに2選手分の仕事をこなすフィールドでのパフォーマンスをはるかに超えるものだ。エンゼルスでプレーするたびに、スタジアムでは大谷の母国でテレビ観戦している何百万人ものファンにリーチしたい日本企業の広告が大量に流された。
背番号17のユニフォームを着た何千人もの人々が毎試合アリーナに押し寄せた。野球についてほとんど何も知らない人もいたが、それでも大谷を愛していた。業界の推定によると、スポンサー契約とチケット販売は、エンゼルスに年間約2千万ドルの追加収益をもたらした。
ロサンゼルス・ドジャースは、大谷がどのチームに入団しても将来有望だと考え、スポーツ史上最高額となる7億ドルの10年契約を提示した。この異例のオファーとアシュリー・ケリー選手の宣伝活動の結果、大谷は2024年4月からドジャースで打撃、投球、勝利を収めている。
「優勝したいです。そして、人々が私のチームが獲得したタイトルを振り返るとき、私がそれに大きく貢献したことを知ってほしいです」
と大谷翔平はいう。日本生まれの野球選手は、これらの夢の実現に向けて着実に歩みを進めている。彼はファンやメディアの間では縁起の良いニックネームとして、「日本のベーブ・ルース」と呼ばれている。