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最強F1ドライバー列伝…「フライング・フィン」と呼ばれた「ミカ・ハッキネン」と「キミ・ライコネン」の偉業を振り返る【マクラーレン編】

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TEXT: 藤田竜太(FUJITA Ryuta)  PHOTO: Mercedes-Benz Group AG/Ferrari N.V.

キミ・ライコネンはF1史上最大の逆転王者

そしてハッキネンに代わって、3代目フライング・フィンを襲名したのが、2007年のワールドチャンピオン、キミ・ライコネン。ライコネンは、フォーミュラ・フォード、フォーミュラ・ルノーなど、ジュニアフォーミュラを23戦(13勝)経験しただけで、ペーター・ザウバーに見いだされ、F1ドライバーに大抜擢されたのがF1キャリアのスタート。初のF1テストで、レギュラードライバーのペトロ・デニスのタイムを大きく上回り、「F1の運転はフォーミュラ・ルノーより簡単だった」とのたまい、周囲を唖然とさせた。

また、2001年にF1にデビューする際もあまりに経験が浅いので、FIAから4戦限定のスーパーライセンスしか発給されなかったが、デビュー戦でいきなり6位入賞(しかもザウバー!)。実力を危ぶむ声をパフォーマンスで黙らせた。2002年は郷里の先輩、ハッキネンの後釜として、マクラーレン・メルセデスに移籍。開幕戦でファステストラップ+3位表彰台。

2003年は、優勝1回、ポールポジション2回で、シューマッハに2点差でランキング2位。2005年の日本GPでは、17番グリッドからスタートし、あの鈴鹿で優勝するという離れ技をやってのけた。2007年にフェラーリに移籍し、移籍初年度にフェラーリでハットトリック(ポールポジション・ファステストラップ・優勝)を獲得した最初のドライバーとして記録される。

この年のライバルは、古巣マクラーレンからデビューしたルイス・ハミルトン。ハミルトンには第7戦の時点で26ポイントもリードされていたのに、そこから後半戦巻き返し、最終戦でわずか1ポイント差で逆転チャンピオンに! 26ポイント差からの逆転は、F1史上最大の逆転チャンピオンといわれている。

また、現時点でのフェラーリのドライバーズチャンピオンは、このライコネンの記録が最後。その後、2009年~2011年はF1を離れ、WRCに参戦。2012年からロータスでF1にカムバックし、2014年から再びフェラーリに。フェラーリでは、ライコネンの数少ないF1での友人、ベッテルとペアを組む。2019年、アルファ ロメオに移り、2021年に引退。

無口でマイペース、お酒が大好きで、ニックネームは「アイスマン」。一発も速く、タイヤにやさしい走りができて、柔軟な戦略にも対応できる、引き出しの多さもライコネンの強み。愛想はまったくないが、そのクールさと飾らない人柄が魅力でファンは圧倒的に多い。

ロータス時代に無線でエンジニアに叫んだ、

「Leave me alone, I know what I’m doing(自分がやるべきことはわかっているから、放っておいてくれないか)」

は、F1のチームラジオの通信で、もっともよく知られている名言のひとつ。才能にあふれ、なおかつ個性的という意味で、ライコネン以上のドライバーは、彼の引退後、まだ現れてはいない。

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  • 藤田竜太(FUJITA Ryuta)
  • 藤田竜太(FUJITA Ryuta)
  • モータリング ライター。現在の愛車:日産スカイラインGT-R(R32)/ユーノス・ロードスター(NA6)。物心が付いたときからクルマ好き。小・中学生時代はラジコンに夢中になり、大学3年生から自動車専門誌の編集部に出入りして、そのまま編集部に就職。20代半ばで、編集部を“卒業”し、モータリング ライターとして独立。90年代は積極的にレースに参戦し、入賞経験多数。特技は、少林寺拳法。
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