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ロールス・ロイスの「ロールズ」と「ロイス」の才能を結びつけた男…スピリット・オブ・エクスタシーを発案した「クロード・ジョンソン」とは

投稿日:

TEXT: AMW  PHOTO: Rolls-Royce Motor Cars

  • 1922年製のロールス・ロイス 20HP
  • 1863年に5人兄弟の末っ子として生まれたヘンリー・ロイス
  • ヘンリー・ロイスと実験用ロールス・ロイス車 6EX
  • 1877年にロンドンの裕福なバークレー・スクエアに生まれたチャールズ・ロールズ
  • 1923年にファントムのプロトタイプに乗るヘンリー・ロイス
  • スピリット・オブ・エクスタシーを発案したクロード・グッドマン・ジョンソン
  • 1911年に発表されたスピリット・オブ・エクスタシーは現在もロールス・ロイス車のフロント部分を飾り続けている
  • ロールス・ロイス初の販売担当マネージングディレクターを務めたクロード・グッドマン・ジョンソン
  • クロード・グッドマン・ジョンソンは、ロールス・ロイスの自動車を個人的に所有することもなく、つねに会社の試験用車両を使用していた

「Rolls-Royce」のハイフンの役割を果たしたクロード・ジョンソン

ロールス・ロイスは創業120周年を迎える2024年、ブランドを語るうえで重要な人物についてフォーカスを当てて紹介しています。今回紹介するのは1864年10月に生まれたクロード・グッドマン・ジョンソンです。ジョンソンはロールス・ロイス初の販売担当マネージングディレクターを務め、ロールス・ロイスの「世界最高のクルマ」としての地位を維持することに専念した人物。「CJ」というあだ名で呼ばれ、生まれながらのショーマンであった彼の生涯を追います。

展示の企画職からロールス・ロイスへ仲間入り

クロード・グッドマン・ジョンソンは、1864年10月24日にバッキンガムシャーで7人兄弟の1人として生まれた。ロンドンのセントポールズ・スクールから王立美術大学に進学したクロードは、そこで、父が勤務していたサウスケンジントン博物館(現ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)の副館長フィリップ・カンリフ・オーウェン卿と出会う。その縁で、帝国研究所(現インペリアル・カレッジ・ロンドン)の事務員として最初の職を得た。

そこで彼は、展示会に携わることになった。彼のデビュー作となった「水産業展」は成功し、1884年には「健康」、翌年には「発明」をテーマとしたイベントを担当することとなる。1886年に「植民地・インド展」が開催されたときには、約200人のスタッフを束ねるまでになった。

研究所で働き始めてまもなく、彼はガールフレンドのファニー・メアリー・モリソンと駆け落ちし、8人の子どもをもうけたが、悲劇的にも7番目の子どもであるベティだけが生き残ることとなる。その後結婚生活は破綻し、クロード・ジョンソンは長年愛人関係にあった女性と結婚した。彼女のことを彼はいつも「ミセス・ミグス」と呼び、2人の間にはティンクという名の娘が生まれた。

1895年、科学分野の著名な著者であり、道路輸送のパイオニアであったデビッド・サロモンズ卿は、英国初の「自動車展」を自身の住むタンブリッジ・ウェルズの自宅で開催した。この成功を収めた展示は自動車に熱中していたウェールズ皇太子の目に留まることとなり、皇太子は同様の展示会をぜひとも開催したいと考えた。そして、皇太子が長年支援してきた帝国研究所で、事務長としてクロード・ジョンソンに依頼した。

1896年に開催されたイベントは、クロード・ジョンソンにとって大きな転機となった。1897年7月に自動車愛好家グループが英国・アイルランド自動車クラブ(後のロイヤル・オートモービル・クラブ、RAC)を設立し、クラブは常勤の幹事を探していた。彼らは、クロード・ジョンソンが帝国研究所での展示会の企画運営を成功させたことを知ってオファーし、彼は喜んでそれを受けることとなる。

組織力と推進力に長けた彼はこの役職に最適だった。彼の指揮の下、クラブは会員向けに多数の自動車イベントを開催し、1900年4月から5月にかけて開催された1000マイル・トライアルでは、パリのパナール製12馬力を運転したチャールズ・スチュワート・ロールズが優勝することとなる。

1903年までに、クロード・ジョンソンはほぼ単独でクラブの会員数を約2000人にまで増やしていた。しかし、彼の心はつねに変化を求めており、クラブの会員でミシン王であるアイザック・シンガーの息子であるパリ・シンガーが、シティ・アンド・サバーバン・エレクトリックカー・カンパニーでの仕事をオファーすると、クロード・ジョンソンはすぐにそれを受けた。シンガー社での数カ月の勤務の後、彼がクラブのメンバーのひとりが立ち上げたばかりの自動車販売事業、「CS Rolls & Co.」に入社したことにより、ロールス・ロイスの歴史の歯車が動き出す。

スピリット・オブ・エクスタシーはクロード・ジョンソンの発案で製造

ビジネスパートナーとして、ロールズとクロード・ジョンソンの2人は理想的な組み合わせだった。ロールズは技術面を担当し、クロード・ジョンソンは一般の顧客への宣伝や販売を担当した。会社は繁栄し、ロールズは1904年にヘンリー・ロイスが製造した新型10馬力自動車を見つけ出すこととなる。ロールズはヘンリー・ロイスとマンチェスターで初めて会った後ロンドンに戻り、ロイスが製造できるすべての自動車を「ロールス・ロイス」という新しい名称で販売することになった。クロード・ジョンソンはたちまちこのプロジェクトに魅了され、1906年にロールス・ロイス社が正式に設立されると、販売担当の常務取締役に就任した。

クロード・ジョンソンの宣伝活動における才能と熱意は、まさにうってつけの活躍の場を見つけた。クロード・ジョンソンの勧めにより、ロイスはより大型でパワフルなモデル、「40/50 H.P.」を開発し、より大型のボディワークを搭載できるようにした。またクロード・ジョンソンは銀メッキ仕上げと銀色の塗装を施した12台限定モデルを「シルバーゴースト」と名付け、1907年のイベントでは優勝。この自動車の信頼性を強調するために、彼はすぐに「ノンストップ」走行に参加するよう準備をはじめた。これはパンクを除いて、1日の決められた時間内に道路上で停止することなく走り続けるというものだ。結果的にロンドンとエディンバラの間をノンストップで1万5000マイル(約2万4140km)を往復し、新たな世界耐久記録を樹立した。特徴的なのは、クロード・ジョンソンが最初の4000マイル(約6437km)を自ら運転したことであった。

クロード・ジョンソンは注目に値するPR活動も続けた。それは、エンジンをかけたままグラスに入れた水を一滴もこぼさずに注ぎ入れたり、ラジエーターキャップの縁にコインを載せて倒さずにバランスを取ったりするものだった。また、ロード・ジョン・モンタギューとの共著『Roads Made Easy』というガイドブックのシリーズを執筆し、出版した。

モンタギューを通じて、クロード・ジョンソンはアーティストのチャールズ・サイクスと出会った。自動車のラジエターキャップにコミカルなマスコットを取り付けるという流行が、クルマのクラシックなラインを損ねているのではないかと懸念したクロード・ジョンソンは、公式なマスコットのデザインをサイクスに依頼した。

現在「スピリット・オブ・エクスタシー」として知られるこのマスコットは1911年に発表され、クロード・ジョンソンの最も重要で不朽の遺産のひとつとなっている。今日に至るまでロールス・ロイスの自動車のフロント部分を飾り続けているこのエンブレムは、時代を超えたブランドのミューズであり、最近ではプライベート・コレクションの「ファントム シンティラ」をはじめとする数々の傑作のインスピレーションの源となっている。

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