親しい英国の画家がクロード・ジョンソンを表した言葉とは
1926年4月6日、クロード・ジョンソンは体調不良を感じていたにもかかわらず、いつものようにオフィスに出勤していた。翌日体調はさらに悪化したが無理をして姪の結婚式に出席し、そこで倒れた。娘のベティにクルマで家まで送ってもらったが、その道中、彼は「自分は助からないだろう」と話し、また「葬儀には騒ぎも花もいらない」と告げた。4月11日、彼の死は全国紙やBBCによって報道され、それはロールス・ロイスにとって彼がどれほど重要であったかを表したものであった。ロイスは旧友の死に深く心を痛め、「彼は船長であり、私たちは乗組員にすぎなかった」と語った。
仕事に対する熱意と見せかけの派手さとは裏腹に、クロード・ジョンソンは個人的には謙虚で、非常に慎重な人物であった。自分の懐を肥やすと非難されることを恐れて、彼は会社の株式を保有することはなかった。また、ロールス・ロイスの自動車を所有することもなく、つねに会社の試験用車両を使用していた。戦争への貢献を称えられナイトの称号をオファーされた際には辞退し、その称号はロイスに与えられるべきだと述べた。彼はつねに賞賛を受け入れることを嫌った。
娘のティンクは、彼を次のように表現している。
「あらゆる面で大きな人物だった。身長は6フィート2インチ(188cm)で均整がとれ、大きな手は美しかった。素晴らしい父親で、いつもきちんとした服装をしていた」
しかし、この傑出した人物を最もよく表しているのは、親しい友人である英国の画家、アンブローズ・マケボイの「賢く、親切な巨人」という言葉かもしれない。
AMWノミカタ
クロード・グッドマン・ジョンソンは社交家でビジネスマンであるロールスと天才エンジニアのロイスの間の「ハイフン」であると自ら称していた。つまり「Rolls-Royce」の「−」の部分である。2人の才能を結びつける役割を果たしている。ロールス・ロイスが「世界最高のクルマ」と称賛されるに至るには、彼自身の、そしてマーケターとしての類まれなスキル、才能、経験、そして個性に拠るものが大きい。
スピリット・オブ・エクスタシーは彼の発案で製造され、パンテオンラジエターのデザイン変更に断固反対し、ファントムというモデル名を付けたクルマを販売した。いずれも100年以上経った今でもロールス・ロイスのブランドを印象つける重要なアイコンとして生き続けている。彼はいち早くロールスとロイスの才能を見抜き、また将来を正しく予見する確かな目をもった人物だったのだろう。自身は非常に謙虚な人柄で表舞台に出ることを嫌っていたそうであまり知られていないが、ロールス・ロイスで果たした役割は大きい。