伝説のベントレー 4.5リッターがコッパ・ディ東京で日本の公道を初ドライブ
「オールド・マザー・ガン」という愛称で呼ばれていたベントレーのモデルをご存知でしょうか。1927年から1929年までル・マン24時間レースに参戦し、1928年には見事優勝を果たした伝説的なモデル、シャシー番号「ST3001」の「4 1/2 Litre」が現在日本に存在していることを知っている人は数少ないでしょう。縁あって現オーナーである涌井清春氏から「このクルマで一緒にクラシックカーラリーに出ませんか?」とのお誘いを受けた筆者。公道初走行と聞けばもちろん断る理由はどこにもありません。むしろこんな歴史的なクルマにコ・ドライバーとして乗せてもらえるのは大変名誉なこと。製造から97年の時を経て東京の街を駆け抜けたこのモデルの1日を追います。
1928年のル・マンで優勝したレース車両そのもの
このモデルの概要については本サイトAMWでも武田公実氏の記事によって詳しく紹介されているが、改めて簡単に説明すると、この車両は1927年に製造された「4 1/2 Litre(4.5リッター)」モデルの待望の1号車である。初代のオーナーはベントレーモーターズの会長を務めたウルフ・バーナート氏で、このクルマを1927年6月に受け取るやいなやル・マンまで自走し、6月12日~13日に開催された24時間レースに参戦している。残念ながらホワイトハウスコーナーでクラッシュし、そのレースは棄権となるが、翌1928年にバーナートとルービンのドライブするこの車両は平均速度約110km/hで2650kmを走り切り見事優勝を果たすのである。
このシャシー番号「ST3001」はその後BDC(ベントレードライバーズクラブ)のメンバーによって当時のレースカーを再現すべく仕上げられた。シャシーとアクスルにはオリジナルのST3001の番号が刻まれるが、エンジンに関しては同モデルの少し新しいものに載せ替えられている。レースの世界ではエンジンの載せ替えは頻繁に行われていたので、それを理由にオリジナルでないと言い切るのは無粋と言うものであろう。
涌井清春氏はこの歴史的なモデルを2008年に手に入れ、埼玉県加須にある「ワクイミュージアム」に展示し、「文化遺産の一時預かり人」としての役割を果たしてきた。しかしながら次にこの車両を大事に預かってもらえる最もふさわしい人に継承する時期だと判断し、まずはこのクルマを走らせ世に知ってもらいたいという想いから、2024年11月23日に開催された東京を半日で巡る「コッパ・ディ東京」への参加を決めたのである。
エンジンを始動する前の厳粛な儀式とは
クルマをガレージから出し、エンジンをかけるためにまず最初に行うのは燃料タンクに空気を送り込むことである。丸い木製のノブがついた手動のポンプが室内の中央に備え付けられ、これを前後に動かすことで燃料タンク内の空気圧が高まる。レース仕様のモデルにしか装備されないものだが、高速で走行するとタンク内のガソリンが減り、思った量のガソリンを送り込めずパワーを失う。そのためスタート時に限らず走行中も何度もこのポンプで空気を送ることとなる。電磁ポンプに改良されたこの時代のクルマで思ったようなパワーが出ないのはこの圧力の調整がうまくいかないことが多くの原因であるという。
空気圧がおおよそメーターで「1」を示すレベルまで達すると、ハンドルの前にある3スイッチをパチパチと入れる。この3つのスイッチのうち2つはバッテリーを通電させるためのもので、もう1つはオルタネーターからバッテリーに電力を送り込むためのものである。スイッチを入れて最後に黒いイグニッションを押すといかにも大きなシリンダーが動いていることを思わせるように、車体をブルブルと震わせながら野太い「ブオン」という音とともにエンジンが始動する。
直列4気筒4398ccのエンジンは一度かかるとその後は安定して800rpm程度でアイドリングを続ける。
コッパ・ディ東京のスタート地点である汐留までは日本橋と銀座の中央通りを抜けるルートである。朝6時半という時間だが、まるで映画の世界から飛び出してきたかのようにクラシックカーが銀座を疾走する姿は道行く人には不思議な光景に映っていたであろう。
クラッチを切り、センターに位置するアクセルペダルで回転を合わせ、ドライバーズシートの右側に位置するシフトレバーを1速にいれると、モーターの音のような唸りとともに車体が前に押し出される。アイドリング音も走行時もレーシングカーを思わせる爆音とは異なり、実際のところエンジン音というよりもギアが噛み合って発する音のほうが大きいように感じた。4速に入るとそれも皆無で、まるで現代車のコースティングモードに入っているように静かである。
奇妙な「BAC」ペダルレイアウトで易々とクルマを操縦
ラリースタートまでの間、クルマから降り、しばし他の参加者と歓談の時間となるが、じつはクルマの乗り降りにもコツがいる。基本ドアは左しかなく、ドライバーはまずは左席に座ってから身体を右にずらす。18インチの大きなハンドルが直接右から乗ることを拒むからである。涌井氏は右側から土足で運転席に乗り込むが、それでも一旦左シートに身体を寄せないと足をハンドルの下に位置することはできない。当然パワステのない時代である。大きなハンドルが必要だった当時の車両のコントロールの難しさをこんな所作からも感じる。
靖国神社を過ぎると九段下まで長い下りが続く。ブレーキは前後ともにドラムブレーキが装備されており、ブレーキペダルは現代車とは異なり一番右に位置する。いわゆる「BAC」レイアウトである。涌井氏に聞けば1921年に製造された「3 Litre」モデルも「BAC」レイアウトで製作されており、同年に製造された「6 1/2 Litre」は現代車と同じく「ABC」に配置されているという。1619台という大ヒットとなった3 Litreモデルの乗り換え需要を念頭に同じペダルレイアウトを継続したのではないかというのが我々の推測である。
ちょっとの距離でもこのクルマの運転をためらう理由はこの奇妙なペダルレイアウトにある。しかし、涌井氏はそんなことは微塵も感じさせず易易とクルマをコントロールする。その姿はまるでそれが当たり前だった1920年代からタイムスリップしてきた「ベントレーボーイズ」の姿のように感じた。