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メルセデス・ベンツ「300SLプロトタイプ」で大クラッシュ! 名ドライバー「カラッチオラ」と名監督「ノイバウアー」の友情はいかにして終わったのか

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TEXT: 妻谷裕二(TSUMATANI Hiroji)  PHOTO: Mercedes-Benz AG/妻谷コレクション(TSUMATANI Collection)

  • 1938年7月3日フランスGPでメルセデス・ベンツW154は、1位はフォン・ブラウヒッチュ、2位はルドルフ・カラッチオラ、3位はヘルマン・ランクと独占した
  • 1938年8月21日、ベルン近郊で開催された大雨のスイスGPでメルセデス・ベンツW154を駆って優勝したルドルフ・カラッチオラ
  • 1938年8月21日、ベルン近郊でのスイスGPでメルセデス・ベンツW154は、大雨の中、スタート直後にトップに立ち、3連覇を狙った。勝者はルドルフ・カラッチオラ(右)で、2位はリチャード・B・シーマン、3位はフォン・ブラウヒッチュと独占した
  • 1938年8月21日ベルン近郊でのスイスGPで、W154を駆って大雨の中、トップを走るルドルフ・カラッチオラ
  • 1938年8月21日のスイスGPで1~3位を独占したメルセデス・ベンツチーム。写真は左からルドルフ・ウーレンハウト、マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ(3位)、優勝したルドルフ・カラッチオラ、リチャード・B・シーマン(2位)、ディレクターのマックス・ザイラー、レース監督のアルフレッド・ノイバウアー
  • 1938年スイスGPの広告。メルセデス・ベンツW154は1~3位を独占した
  • メルセデス・ベンツW154はV12気筒3Lで2基のスーパーチャジャー付きエンジンを搭載。写真はフロント
  • メルセデス・ベンツW154はV12気筒3Lで2基のスーパーチャジャー付きエンジンを搭載。写真はサイド
  • メルセデス・ベンツW154はV12気筒3Lで2基のスーパーチャジャー付きエンジンを搭載。写真はリア
  • 1938年7月24日ニュルブルクリンクのドイツGPにおける最強のメルセデス・ベンツチーム。左からフォン・ブラウヒッチュ、ノイバウアー監督、リチード・D・シーマン、ランク、カラッチオラ。車両はW154
  • 1938年8月14日にイタリア・ペスカーラ近郊で行われたコッパ・アチェルボにて。左からノイバウアー監督、ルドルフ・カラッチオラ、ルドルフ・ウーレンハウト
  • わずか8カ月で完成したメルセデス・ベンツの1.5Lマシン、W165
  • わずか8カ月で完成したメルセデス・ベンツの1.5Lマシン、W165
  • 1939年5月7日トリポリGPで、メルセデス・ベンツW165を駆るルドルフ・カラッチオラはチームメイトのヘルマン・ランクに次ぐ2位を獲得。写真は疾走するルドルフ・カラッチオラ
  • 1939年5月7日トリポリGPのスタートシーン。メルセデス・ベンツW165がスタート直後からトップを独占。優勝したのは車番16のヘルマン・ランク、車番24番のルドルフ・カラッチオラは2位でフィニッシュ
  • 1939年5月7日トリポリGPではヘルマン・ランクがメルセデス・ベンツW165でゴールし優勝
  • 1952年年5月18日に開催されたスイスのベルンGPで、カラッチオラはルドルフ・ウーレンハウトが新設計したメルセデス・ベンツ300SLプロトタイプ(W194)で好スタートを切ったが大事故で引退。写真は300SLガルウングドア
  • 1952年年5月18日に開催されたスイスのベルンGPで、カラッチオラはルドルフ・ウーレンハウトが新設計したメルセデス・ベンツ300SLプロトタイプ(W194)で好スタートを切ったが大事故で引退。写真は300SLガルウングドア
  • 1974年、筆者は当時のダイムラー・ベンツ社のトレーナーを介して、アルフレッド・ノイバウアー監督の著書『MÄNNER-FRAUEN UND MOTOREN』に自筆のサイン&写真を添付して送付していただいた(メルセデス・ベンツミュージアム館長時代)。写真は表紙
  • 1974年、筆者はアルフレッド・ノイバウアー監督の著書『MÄNNER-FRAUEN UND MOTOREN』に自筆のサイン&写真を添付して送付していただいた。左右見開きにはコメント、サイン&写真
  • アルフレッド・ノイバウアー著『MÄNNER-FRAUEN UND MOTOREN』の見開き左ページには「友情の記念」と題し、1924年タルガ・フローリオのレースコメントが記述!
  • アルフレッド・ノイバウアー著『MÄNNER-FRAUEN UND MOTOREN』の見開き右ページにはアルフレッド・ノイバウアー監督自ら、筆者宛にサインをしてくれた! 日付けは1974年1月
  • アルフレッド・ノイバウアー監督(右)とルドルフ・カラッチオラ(左)
  • 1939年7月23日にニュルブルクリンクで行なわれたドイツGP。左からヘルマン・ラング(優勝)、ノイバウアー監督、ルドルフ・カラッチオラ(3位)
  • 1952年5月3日~4日のミッレ・ミリアでは、カラッチオラはメルセデス・ベンツ300SLプロトタイプ(W194)を駆り4位を獲得している
  • 1952年5月18日に開催されたスイスのベルンGPで、カラッチオラ(ゼッケン16番)はルドルフ・ウーレンハウトが新設計したメルセデス・ベンツ300SLプロトタイプ(W194)で好スタートを切ったが……
  • 1952年5月18日に開催されたスイスのベルンGPで、カラッチオラ(ゼッケン16番)はルドルフ・ウーレンハウトが新設計したメルセデス・ベンツ300SLプロトタイプ(W194)で好スタートを切ったが……

メルセデス・ベンツの偉大な監督ノイバウアーと雨天の名手カラッチオラの友情の物語、最終章

メルセデス・ベンツのモータースポーツを語るうえで、名監督アルフレッド・ノイバウアーと名ドライバー、ルドルフ・カラッチオラの関係性はとても重要です。今回は、カラッチオラとメルセデス・ベンツが戦前の1938年と1939年にさらなる栄光を掴んだ過程と、カラッチオラがレースを引退するまでを紹介します。

理不尽なルール変更に負けず8カ月で新マシンを製作

1938年のシーズンはメルセデス・ベンツチームにとって素晴らしい成果をあげた。例えば、1938年7月3日のフランスGPでメルセデス・ベンツ「W154」(V12気筒3Lで2基のスーパ-チャジャー付き)が1位~3位を独占(1位はフォン・ブラウヒッチュ、2位はルドルフ・カラッチオラ、3位はヘルマン・ランク)。続いて、8月21日ベルン近郊で開催された大雨のスイスGPでも1位~3位を独占した。とくに、この大雨のスイスGPでは、メルセデス・ベンツW154はスタート直後にトップに立ち、3連覇を狙った。結果、勝者は雨天の名手ルドルフ・カラッチオラで、2位はリチャード・B・シーマン、3位はマンフレッド・フォン・ブラウヒッチュと、メルセデス・ベンツW154は1~3位を独占した。

メルセデス・ベンツチームはGPで数多くの勝利を飾ったが、一方、以前の常勝国・イタリアは1回も優勝することができなかった。モンツァのレース後、イタリアのスポーツ委員会がノイバウアー監督に愛想笑いをしながら、

「イタリアのスポーツ委員会は1939年のトリポリレースを1.5Lクラスに制限することに決定した」

と通告してきた。ノイバウアーはこうなることを予感していたし、すでに、ドイツ勢をどのようにしたらやっつけられるのかとピットで噂されていたことも知っていた。

しかし、メルセデス・ベンツのザイラー取締役は降参するような男ではなかった。彼は設計者や技術者をシュツットガルトに集めて次のように質問した。

「諸君、来年の5月までに1.5Lカーを造ることができるか?」

設計者たちは「不可能、それは普通の期間の半分ではありませんか」と言った。

しかし、8カ月後には新しいメルセデス・ベンツがホッケンハイムで初めてのテスト走行をパスし、1939年5月には不可能が可能となった。つまり、ヘルマン・ランクがこの1.5Lのメルセデス・ベンツ「W165」でトリポリレースに優勝し、しかも2位のルドルフ・カラッチオラを3分リードしたのだ。

2人の友情の終焉

ニュルブルクリンクのレースでもランクは1位を保ち、カラッチオラは3位に留まった。しかし、ノイバウアー監督は喜ぶには早すぎた。なぜなら、この勝利で10年間の友情がほぼ壊れると思ったからだ。カラッチオラはメルセデス・ベンツから降りると怒って顔が引きつっており、ノイバウアーの差し出した手をじっと見つめて、ゼネラルディレクターのキッセル博士の所へ走り去った。

「こんなことは、もう沢山だ!」とカラッチオラがわめく声をノイバウアーは聞いた。「私に対するサボタージュには我慢できない」

「どうしたというのだ、不満の理由は?」とキッセル博士は尋ねた。

「オレの燃料補給やタイヤの交換はランクの時よりも、とてもノロノロしているんだ。それだけじゃない」とカラッチオラは喚いた。まだ他にも多くの不満と主張があり、心から怒って話していた。

「ランクは若くて、労働者階級の出身だからよくかわいがられ、オレはイタリア系の名前でしかもスイスに住んでいるから、彼に特別な待遇をするのではないのか!」

とカラッチオラは主張した。

それにもかかわらず、カラッチオラはダイムラー・ベンツ社に忠実で、スターマークのために戦後も走り回った。彼は世界のベストドライバーとともに戦った。しかも、すでに彼らの何人かは息子の世代へと移っていったにもかかわらず。

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