ボディカラーはオリジナルのまま!
2024年10月26日にRMサザビーズが米国ロサンゼルスで開催したオークションにおいてランボルギーニ「ミウラP400」が出品されました。ジャンクヤードから発掘されたこの個体は、275台が生産されたとされるミウラP400の中で159番目に完成した1台。シャシーナンバー「3417」、エンジンナンバー「1790」、ボディナンバー「159」と、ナンバーマッチングもクリアしていました。
価値を知る者にとっては宝物のようなクルマがたくさん!
アメリカ・ロサンゼルスの近郊で、ルディ・クラインというひとりの男が、そのコレクションを始めたのは1967年のことであった。彼が収集したのは、その価値を知る者にとっては、まさに自動車の宝物ともいえるジャンクカーやエンジンをはじめとする数多くの部品。だがその存在は長く知られることはなかった。コレクターの仲間内ではたびたびその噂が話題になることはあったが、ジャンクヤードの中を正確に知る者は皆無だった。今回RMサザビーズの手で、コレクションの全貌が明かされるまでは……。
「ザ・ジャンクヤード」、そして「ザ・ルディ・クライン・コレクション」のダブルタイトルが掲げられたオークションは、ルディ・クライン氏の死にともなって、彼の息子が所蔵物のすべてを一気にオークションで販売、すなわちもう一度それを求めるカーマニアやコレクターのもとに戻すことを計画して企画されたものだった。
それは真のコレクターの世界を垣間見ることのできるイベントであり、また長い間失われていた、あるいは破壊されていたと思われていた歴史的に貴重なモデルを、部品やその他の宝の山とともに手に入れる機会を入札者に与えるイベントでもあった。おそらくルディ・クライン氏自身も、人生の最後の瞬間にはこのようなことを考えたことは容易に想像できる。
ナンバーマッチングがバッチリ!
2024年10月26日にはロサンゼルスで、そして続く27日と28日はオンラインで開催された同オークションには、クライン氏の審美眼を象徴するかのような、さまざまなジャンクが出品された。
ここでまず紹介するのは、1968年式のランボルギーニ「ミウラP400」。P400は、ミウラ・シリーズのファーストモデルで、それが正式に発表されたのは1966年のジュネーブ・ショーでのこと。その前年にはベアシャシーと、そのミッドにV型12気筒エンジンを搭載した「TP400」が披露されているが、実際にミウラとネーミングされたプロダクションモデルには、ベルトーネ時代のマルチェロ・ガンディーニがスタイリングした、流麗なボディが組み合わされていた。
そしてランボルギーニはミウラの誕生で、スーパースポーツというジャンルを築き上げ、また自らの存在を世界に轟かせたのだ。
今回ルディ・クライン氏のジャンクヤードから発掘されたモデルは、275台が生産されたとされるミウラP400の中で159番目に完成されたもの。シャシーナンバー「3417」、エンジンナンバー「1790」、ボディナンバー「159」と、ナンバーマッチングもクリアしている。
ルディ・クライン・コレクションには46年以上、このミウラは保管されていたというが、ブルーのインテリアにジャッロ・ミウラのボディカラーはオリジナルのままである。1968年3月にイタリア仕様としてラインオフされた後、ランボルギーニ・ディーラーのランボ・カーに出荷。
たとえボロでもヒストリーからすると魅力的な1台
さらに記録上はザンポッリという名前のカスタマーに販売されたことになっているが、この時代ランボルギーニで働き、のちにチゼタ・アウトモビリを設立、「V16T」を生み出したクラウディオ・ザンポッリ氏ではないかと推測できると、RMコレクションはコメントする。
ザンポッリ氏は当時からアメリカにランボルギーニを輸出するビジネスを行っており、彼の手を経て、この「3417」のミウラP400はルディ・クライン氏の所有車となった可能性も考えられるのだ。
これから本格的なレストアをミウラP400に施したいというビッター(入札者)にとって、やはりこのモデルはそのヒストリーとともに、非常に魅力的な存在といえたのだろう。RMサザビーズが掲げた50万~70万ドル(邦貨換算約7615万円~1億661万円)というエスティメート(推定落札価格)に対して、入札価格は100万ドルを軽く超え、最終的に132万5000ドル(同2億180万円)という価格に達した。
ミウラの人気は、まだまだ上昇傾向にあると見てよいようだ。