日本のレース史において主役の一角を務めたレーシングチーム
モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載。今回は日本のモータースポーツの黎明期に登場した「タキ・レーシング」について振り返ってもらいます。
第5回日本グランプリでトヨタ、日産に割って入ったTRO
日本グランプリというレースが初めて開催されたのは、1963年のこと。その時は日本の誰もがほとんど自動車レースというものを知らず、メインイベントは海外からやってきたクルマとドライバーが占めていた。
そして第2回グランプリになると、そのメインレースは日本人ドライバーと日本車によって占められた。唯一優勝をさらったマシンがポルシェだった。続く第3回グランプリ……と言いたいところだが、第3回グランプリは諸般の事情で中止され(翌1966年に開催されたが)、その代わりに船橋サーキットで船橋CCCレースが開催された。
この頃デビューしたドライバーが、のちに日本のレース界をけん引する。その中の1人が滝 進太郎であった。はじめはロータス、のちにポルシェ「カレラ6」を操り、グランプリでバトルを生沢 徹と繰り広げ、2年後(1967年)にはドライバーを引退し、タキ・レーシング・オーガニゼーション(TRO)を組織する。
第5回日本グランプリが、そのTROの檜舞台だった。トヨタは早くから3L V8を搭載した「トヨタ7」をシェイクダウンし、日産は巨大なウイングを持つ謎のマシンを開発していて、初期はクーペスタイルのボディを持っていたが、いざグランプリが始まると、オープン2シーターに変身して現れた。
しかも搭載していたエンジンはシボレー製の5.5L V8であった。少なくともパフォーマンスの上では圧倒的にトヨタを凌駕していたのである。そんなトヨタ、日産に割って入ったのがTROだった。2台のローラ 「T70 Mk IIクーペ」、そして2台のポルシェという布陣。しかも1台のポルシェは最新鋭の「910」であった(もう1台は第4回グランプリで滝自身が乗った「906」)。
さすがにレースでは日産に圧倒され、生沢のドライブする910が2位に入るのが精いっぱい。パワーのあるローラ2台は序盤にリタイアした。このレースでTROは確かな手応えを掴んだのであろう。翌年はさらに強力なポルシェワークスを招聘して、話題をさらったのである。
メンテナンス工場は世田谷にあった!
そんなTROであったが、そうしたマシンをどこでメンテナンスしていただろうか。富士スピードウェイ周辺にもあったのかもしれないが、私の知っているタキ・レーシングの工場は、東京の世田谷区下馬にあった。住宅街の一画で、どう考えてもそこでエンジンをかけて調整をするなど無理な場所である。
別に特別な門があったりするわけではないので、建物の中はよく見えた。まあほとんどバラックに近い物置に無造作にマシンが並び、そこで整備をしていた。いつそこを知ったか定かではないが、とある人物(違いの分かるオトコという珈琲のCMに出ていた)が教えてくれたと記憶する。我が家からは自転車で30分ほど。当時まだ高校生になりたての頃で、見つけてからはよく通ったものだ。と言っても塀の外で見ているだけ。かなり汚い物置風の建物の中ではいつも3人のメカニックが働いていた。
とある時、1人のメカニックが手招きして「入っていいよ」と言ってくれた。それが、のちに高原レーシングでチーフメカニックとして働くことになる小倉メカニックだった。それ以降、小倉メカニックがいると中に入ることが許されたように記憶する。
当時働いていたメカニック、もう1人はたぶん猪瀬さんだったのだと思うが、残りの1人はついに分からずじまいであった。後年、私はノバエンジニアリングで丁稚メカをやり、そこで初めていろいろなメカニックの名前を知ることになった。
ノバにとっては目の上のたんこぶのような存在だった高原レーシングのチーフメカニックが小倉さんで、下馬のタキレーシングにいらしたのが小倉さんだとその時になって分かった。失礼ながらとても人懐こそうなお顔で、風貌的にもひと目見たら忘れなさそうな方だったからよく覚えている。
当時のドライバーも複数いた中で招き入れられた
ある時いつものように小倉メカニックが手招きで入れてくれた。招き入れてくれた理由は、近くにトヨタのディーラーがないか? という質問だった。ドライバーの人も複数いて、はたしてそれが誰だったかはこれも覚えていないが、記憶では永松邦臣さんと片平 浩さんで、片平さんは間違いない。もしかしたら長谷見さんもいたかもしれない。でも、その当時は正直言って誰が誰だか知らなかった。
「トヨタのディーラーなら真中にありますよ」
と私がいうと、そこに連れて行ってくれとのことで、なんと片平さんのドライブするクルマでそのディーラーまで行き、何かを買って再び工場まで戻った記憶がある。
工場の写真は一度だけ撮った。写真を撮るつもりで工場に行ったのは、後にも先にも一度だけ。その時はローラ T70のベアシャシーに、塗装中のポルシェ 908、それにレースから帰ってメンテナンスを受けるポルシェ 910の姿があった。工場内の雑然とした様を見れば、これでよくぞ大メーカーのトヨタや日産に挑んでいったと思う。
908/02は初期型ボディのもので、6回グランプリに出たマシンと思われるのだが、のちに風戸 裕が購入することになるフルンダーボディの908/024とは異なるモデルのようである。撮影された時期を『タキ・レーシングの遺産』という本の著者である芳村 毅氏が1969年11月以降としていたので、グランプリ以降も日本に残っていたことになるのだが、このクルマがはたしてどこに行ったのかは不明である。風戸のクルマは今ドイツに戻っているようだ。
TROは日本のレース史において間違いなく主役の一角を務めたレーシングチームと言えよう。