漫画『サーキットの狼』連載開始から50年! スーパーカーブームを振り返る
1970年代後半に日本を席巻した「スーパーカーブーム」のきっかけは、池沢さとし(現・池沢早人師)さんによる漫画『サーキット狼』の大ヒットでした。その連載開始が週刊少年ジャンプ1975年1月6日号(発売は前年12月10日)ということで、AMWでは2025年を「スーパーカーブーム50周年」と見立て、当時の熱狂を知る皆さんに思い出を振り返ってもらうことにしました。今回は、1952年生まれで当時スーパーカーを輸入する会社でアルバイトをしていたという、ベテランモータージャーナリストの中村孝仁さんです。
スーパーカー輸入会社で4年間アルバイト
今年がスーパーカーブーム50周年ということだそうだが、1975年当時、まだブームには至っておらず、実質的に爆発的なブームが始まったのは1976年後半からだ。その当時私はすでに日本にはおらず、当時の西ドイツでひとり暮らしをしていた。私の父からの話では、当時わが家にはシトロエン「GS」というクルマがあったのだが、クルマが止まると子どもたちからサインを求められたそうだから、いかに異常だったかわかると思う。
そのスーパーカーブームのきっかけは、1972年に遡って、並行輸入が正式に認められたころからである。この頃から俗にいう(当時は言わなかった)「スーパーカー」の輸入が盛んにおこなわれるようになった。私はそのスーパーカーを輸入する会社で4年間アルバイトをしていたので、言ってみればその当時はどっぷりとスーパーカーにハマっていたと言ってよい。
とにかく乗れるスーパーカーはいくらでもあった。じつはディーノ「246GT」を足代わりにしていたこともあった。会社の社用車は一時的にアルファ ロメオ「モントリオール」という時代もあった。そんなわけだから、今の人にしてみたら垂涎のクルマ生活を送っていたと言ってよいだろう。
今と違って当時のスーパーカーは安かった。まあ、安いというのは少々語弊があるかもしれないが、今と違ってその種のスーパーカーを買いたいと思う人が少なかったから、正直言うとあまり売れなかった。だから高い値段をつけて売ることが、はばかられたと言うべきかもしれない。もちろん今のようにプレミアム価格などもってのほかの時代である。
カウンタック前、スーパーカーのど真ん中はミウラだった
どれか1台思い入れの強いクルマを選べと言われると、正直非常に難しい。生まれて初めて乗ったフェラーリ「365GT2+2」は、後にミュージシャンのかまやつひろしさんが買ったクルマで、彼と一緒にショートドライブしたので思い出深い。ディーノも半ば足グルマで使ったから、こいつもじつに色々な思い出がある。
でもやはり1台と言われたら、ランボルギーニ「ミウラ」だろう。ミウラはそれほど長距離を乗ったことはなかったが、その獰猛な走り、圧倒的な速さ、精悍なスタイルは今も忘れ難い。当時、まだせいぜい4000kmぐらいしか走っていなかった新車に近い状態のクルマだったのだが、日本の交通状況には全くマッチせず、しかも正直メカニックの腕の方も稚拙(そう言わざるを得ないと思う)だったし、どう対処してよいかわからなかったと思うので、オーバーヒートが絶えなかった。そんなクルマで思い切り飛ばした経験がある。
時効ということで話をすれば、国道246号を100km/h以上で走った。まあ当時はそんな馬鹿なことができた時代でもあった。たかだか20歳を少し超えた若造が、まさにカッ飛びでミウラを走らせた。正直言ってよく無事で今日までこれたな……と思う。
ランボルギーニ「カウンタック」は誕生していたものの、生まれたてのためにまだ入荷しなかった時代である。カウンタックがやってきたのは1975年の夏ごろだったと記憶する。だから、その当時スーパーカーのど真ん中はミウラだったのだ。そんなわけでスーパーカー夜明け前を語らせたら、いくらでも逸話があって話が尽きない。