昔は1周6キロのロングコースだった
モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載。今回のテーマは、レジェンドドライバーの鮒子田 寛氏を実行委員長として展開する「GC Returns」が2025年8月9日に開催決定ということで、あらためて富士スピードウェイの今昔物語を語ってもらいました。
懐かしの名マシンが富士スピードウェイを走る
「LRDC」という名のクラブがある。レジェンド・レーシング・ドライバーズ・クラブの略だ。日本の名だたるかつてのレーシングドライバーが名を連ねる。私の趣味であるスロットカーのレースもこのLRDCが毎年盛り上げてくれている。残念なことに開催すべきサーキットが無くなってしまったので、2025年は開催されていない。
そんな折、驚いたことにかつて1970年代から1980年代にかけて開催されていた富士グランチャンピオンレースを復活させようという動きがあった。元チームトヨタのワークスドライバーだった鮒子田 寛氏を実行委員長として「GC Returns」実行委員会なる組織が立ち上がり、2025年8月9日(土)に静岡県の富士スピードウェイで開催されるFuji-1 GPの併催として「GC Returns 1st」を開催する。
このイベントは当時最盛期に走った2L以下のオープン2シーターマシンにマシンのオーナーもしくは指定されたドライバーが乗り、レースをする。昔懐かしいマーチ、シェブロン、ローラといったマシンが今でも日本に相当数現存しているようなのである。
かつて30度の高速バンクがあった
そんなわけで今回は富士今昔物語と題して、富士スピードウェイについて話をしよう。私が初めて富士スピードウェイに足を運んだのは1968年のことだった。グラチャンではないが当時富士1000kmレースが開催され、それを見に行ったのである。当時の富士スピードウェイはストレートエンドから30度の高速バンクが繋がる1周6kmのロングコースであったが、数々の悲惨な事故の影響もあって1974年以降はバンクを通過しない1周4.3kmに改められ、その後も改修が続いて2000年にトヨタがコースを取得して以降、現在の姿となっている。
初めてのサーキットは友人のバイクで行ったのだが、爆音とともに走り去るレーシングマシンに感動しないはずはなく、その後も何度もサーキットを訪れた。残念ながらバンクは走ったことがないが、サーキット自体は何度も走り、レースにも出場した(ただし予選落ち)。とにかく1.5km近くあるストレートエンドからのブレーキングが大変で、コース幅の広いことからあまりスピード感がなく、はたしていつどこでブレーキを踏んだらよいやらというのが、初めて走った時の偽らざる印象だった。その後は試乗会でよく走った。一番速かったのはメルセデスAMG GTで走った時だ。トップスピードはたしか290km/hくらいだったと思う。