ブルースの故郷、ミシシッピ・デルタ
2024年の8月末から、アメリカをミシシッピ川沿いに南北縦断して音楽の歴史をたどる旅に出ることにした筆者。ニューオリンズでダッジ「デュランゴ」をレンタルしてBBキングにちなみ“ルシール号”と命名し、仲間と3人で移動。ブルースの故郷である「ミシシッピ・デルタ」へやって来ました。
なぜ「デルタ」なのに内陸部?
ミシシッピ・デルタ、デルタ・ブルースなどという言葉を使ってきたが、「デルタ」とはいったいどこを指すのだろう。一般的には大きな川の河口に広がる三角州を指すことが多く、メコン・デルタ、ナイル・デルタなどが有名だ。しかし、そうだとすると、ミシシッピ・デルタはルイジアナ州のニューオリンズ周辺を指さないとおかしい。
ミシシッピ・デルタの場合、その定義が違う。ミシシッピ川とその支流であるヤズー川に挟まれた細長い楕円形の一帯を指す。地図を見れば、今回、旅行している地域がミシシッピ・デルタであることがわかるだろう。
ちなみに、お世話になったデルタ航空は、ミシシッピ・デルタの農薬散布を行なっていた飛行機会社が母体だったことが社名の由来だ。
多くのミュージシャンが大都市を目指したハイウェイ61
今、ぼくたちはハイウェイ61を走っている。この道はニューオリンズに始まり、ミシシッピ川沿いを北上し、テネシー州メンフィス、ミズーリ州セントルイスにつながっている。20世紀に入ると多くのジャズマン、ブルースマンが夢を求めて大都市を目指した。そして、1915年ごろから30年にかけてその移動はピークを迎える。
当初は鉄道や蒸気船を使って移動していたが、1920年代にGMなどが6気筒、8気筒の高性能車を開発、道路の舗装技術も導入されると陸路が主流になった。その主役がハイウェイ61だった。ハイウェイ61は、アメリカの音楽に大きな影響を与えたブルース街道なのだ。
ただ、現在ハイウェイ61はバイパスのようになっていて、時速65マイル(約105km/h)で走り抜けるちょっと味気ない道になっている。ルート66マニアと同様に、旧道を探す熱心なファンもいると聞く。
南部の激動を生き抜いた老舗レストラン
この日の夕食は、グリーンビルにある「Doe’s Eat Place」というレストランだ。このレストランの歴史が面白い。
Big Doeの一家は中国人で、はサンフランシスコからミシシッピ州に流れ着いた。19世紀のアメリカにおいて鉄道施設は国をあげての大事業だった。鉄道は東西の海岸から同時に作り始め、西から東に線路を敷く作業は中国人が多く担った。Big Doeも鉄路延伸とともに南部にやってきたのだった。
彼は、この地で「パパズ・ストア」という雑貨屋(grocery store)を始める。綿花産業全盛の時代で店は繁盛した。しかし、1927年のミシシッピ大洪水で全壊。それをきっかけに密造酒の世界に入り、フォード「モデルT」を使って商売を広げた。
そして、そこで稼いだ資金で、1941年、彼と妻のMamieが南部名物のホットタマーレを売るレストランを開業したのだった。当初は黒人だけを相手にする安酒場だったという……、まさに南部の激動を生き抜いた店なのだ。なお、ホットタマーレとは、とうもろこしの粉とひき肉を混ぜ、とうもろこしの薄い皮で巻いて蒸した料理だ。
ヴィクスビルに到着するとビックリする報せ……
現在、Doe’s Eat Placeは息子と孫たちが引き継いでいるが、店の真ん中にあるキッチンや客席には1940年代の雑貨店の面影が残っている。名物は看板メニューのホットタマーレと分厚いステーキ、そしてシュリンプ料理だ。テイクアウトをして宿で食べる予定だったが、あまりに話が面白く、店で食べることになってしまった。
夕食後、ハイウェイ61を一路、南下。Airbnbを予約してあるヴィクスビルを目指した。ヴィクスビルはミシシッピ・デルタの南西の端。ぼくたちのデルタの旅の最終目的地だ。
ところが、到着してびっくり。ホストのティムさんが顔を合わせるなり、こう言ったのだ。
「ハリケーンが来ているよ。明日は大荒れだ。ニューオリンズに帰る? やめたほうがいい。もう一泊しなさい(笑)」
ハリケーン!? まったく予想外の展開になり、ぼくたちは顔を見合わせた。
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このミシシッピの旅で筆者が取材した内容を1冊にまとめた本が2025年3月13日に発売となった。アメリカンミュージックのレジェンドたちの逸話とともに各地を紹介しているフォトエッセイ、興味のある方はぜひチェックを。
>>>『アメリカ・ミシシッピリバー 音楽の源流を辿る旅』(産業編集センター)
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