ル・マンでクラス優勝した特別なワークスポルシェ
RMサザビーズがカリフォルニア州モントレー市内にて毎年開催する「Monterey」は、クラシックカー/コレクターズカー・オークションの業界最大手のひとつである同社にとって、まさしくフラッグシップともいうべき大イベント。そこで高額落札された、あるいはされそうなクルマは、例年世界的な話題となる。今回は、オークションの2カ月ほど前に事前広告がリリースされた直後から世界を賑わしていた、ポルシェ「550Aクーペ」についてお話しさせていただこう。実はこの個体、1956年のル・マン24時間レースでクラス優勝を果たした、まさしく歴史的な一台だったのだ。
4台が製作された試作車の中でも唯一のクーペ
1951年のレース初参戦以来、ポルシェは「ル・マン24時間レース」や「セブリング12時間レース」、「デイトナ24時間レース」、「タルガ・フローリオ」などでも総合優勝に輝き、他の追随を許さない圧倒的な強さを確立してきた。しかし、現存するポルシェワークスのコンペティションマシンは、そのほとんどがポルシェのミュージアムに収蔵されており、オークションなどで一般マーケットに出回る機会は皆無に等しい。
1953年に登場した「550スパイダー」の次世代モデルとして開発された550Aは、ポルシェ初となった軽量な鋼管スペースフレーム、完全独立サスペンション、5速トランスアクスルなど数え切れないほどの改良を実行。550スパイダーよりも軽量化を図ると同時にフレーム剛性も大幅に向上させたことで、超軽量合金のボディカウルの装着を可能にした。
1956年の「タルガ・フローリオ」にて、ポルシェのワークスチームからエントリー。ウンベルト・マリオーリのドライブで実戦投入された550Aプロトタイプ、シャシーNo.#0101は、フェラーリやマセラティといった世界屈指の大排気量マシンを相手に、15分のリードタイムで総合優勝を飾った。
そして、1956年のル・マン24時間レースのために特別に開発され、クラス優勝と総合5位入賞を果たした550Aプロトタイプ“ル・マン”ワークスクーペ。シャシー550A-0104は、Werks(ワークス)用のクーペボディとして作られ、今なお現存する唯一の個体である。
そもそもクーペボディを持つワークスマシンは、先代にあたる550の時代から登場していた。ポルシェのエンジニア、ヴィルヘルム・ヒルトとエルヴィン・コメンダが特許を取得した流線型ファストバックルーフを採用する美しい550クーペは、遡ること3年、1953年のル・マンでクラス1-2フィニッシュという快挙を成し遂げた。ちなみにこの2台は現在も生き残り、世界有数のポルシェ・コレクションで貴重な宝物として保管されている。
そしてポルシェ首脳陣は、1953 年の 550“ル・マン”プロトタイプからインスピレーションを得たクーペ版を、大掛かりな改良版である550Aでも製作することにした。
シャシーNo.#0104は、4台が作られた550Aプロトタイプの最終車両であり、長い間、ポルシェの歴史家の間では破壊されたといわれてきた姉妹車の550A-0103とともに、1956年7月28日に開催されるル・マンに向けて準備が進められていたころから、レーシング・ワークショップの封鎖された区画に保管されていた。
1953年型クーペと外見上の類似点はあるものの、1956年ル・マン用の550A-0104の基礎技術は明らかな進化を見せていた。ヒルト技師はファストバックルーフのデザインを改良し、プロフィールの形状を変更。プレクシガラス製のベンチレーションウインドウ、二重構造のリアバルクヘッド、ピットストップで547型1.5リッター4カムエンジンの点検を容易にする、ヒンジつきのアクセスパネルなどを採用した。また、550A特有のチューブラーフレーム構造が一体型ロールバーの必要性をなくしたため、新しいルーフはボディに直接固定された。
そして迎えたル・マン24時間レース。#0104のステアリングは、ワークスドライバーのリヒャルト・フォン・フランケンベルクとヴォルフガング・グラーフ・ベルゲ・フォン・トリップスに委ねられた。
ル・マンの快挙ののち、現在に至るまでのヒストリー
1956年に開催されたル・マン24時間レースは、100年の歴史のなかでももっとも危険なレースのひとつとなったことで知られている。部分的に舗装されたサーキットをほぼ絶え間なく雨が襲い、ボディ全幅をカバーするウインドスクリーンを義務づける新しいレギュレーションもあって、ドライバーにとっては最悪のコンディション。その結果、49台中14台しかフィニッシュを果たせなかった。
予選18位から追い上げたフォン・トリップス伯は、7月29日の早朝には#0104を総合7位で走らせていた。ポルシェの経営陣からのプレッシャーを一身に背負ったフォン・フランケンベルグとフォン・トリップスは、レース終盤まで果敢に戦い抜き、平均速度98マイルで総合5位、1.5リッター以下のスポーツカークラスでクラス優勝を飾ったうえに、「パフォーマンス・インデックス(性能指数賞)」でも2位を獲得した。
ル・マンでの快挙ののち、550A-0104は特徴的なファストバックルーフを取り外し、1956年8月5日、「ニュルブルクリンク・ラインラント」で4位に入賞したあと、ポルシェ・ファクトリーからアメリカの著名なプライベートチームオーナー、ジョン“ザ・キングフィッシュ”エドガーに譲られる。
エドガーは1956年11月4日、ドライバーにピート・ラブリーを起用してパームスプリングスで#0104をデビューさせたが、もっとも注目すべき戦果は1957年の「セブリング12時間レース」。一流のドライバーとマシンがひしめく中、映画「フォードvsフェラーリ」でも知られることになったケン・マイルズが、ジャン-ピエール・クンストルと組んでクラス2位(総合9位)を獲得したことだった。
その後、クンストルはエドガーから#0104を購入し、1958年夏まで北米各地のレースで大成功を収めたが、輸送中の事故により手放すことにした。
新たに所有者となったワシントン州シアトルのジョージ・ケックは、極端に低く構えたアルミボディを作らせるとともに、北米ポルシェ・ディーラーのヴァセック・ポラック、ジョン・フォン・ノイマン、ファクトリー・メカニックのロルフ・ヴュータリッヒから調達したコンポーネンツで機関部を作り直した。
さらに1960年までに#0104はタッド・デイヴィスの手に渡り、シボレー・コルヴェア用(!)の空冷フラット6OHVエンジンに、ポルシェ356用5速トランスアクスルを組み合わせて搭載。1962年シーズンの後半まで、SCCAの北西太平洋地区戦で活躍した。
そののちも何人かのオーナーがレースに投入させたが、1966年をもってアメリカにおける現役を引退。1980年代以降は、クラシックカーレースなどでその姿を見せていたという。
そして2004年、存在が薄れかかっていた550A-0104は、ポルシェ創成期のコンペティション・プロトタイプの分野では世界有数のコレクターとして知られるフリオ・パルマズによって発見されることになる。パルマズが所有するレストア工房は、すぐに550A-0104を1956年のル・マン仕様に戻すという大事業に取り掛かった。
圧倒的な高評価を得たレストアを終えて以来、#0104が公衆の面前に現れる機会は限られていたものの、2015年の「アメリア・アイランド・コンクール・デレガンス」、2018年の「第4回レンシュポルト・リユニオン」、2022年の「ロレックス・モントレー・モータースポーツ・リユニオン・レース」でのル・マン100周年記念展示などは、記憶に新しいところであろう。
1956年のル・マン24時間レースでデビューし、ポルシェのファクトリーチームカーとしてクラス優勝と総合5位入賞を果たした550Aプロトタイプ“ル・マン”ワークスクーペが「ポルシェの王族」に名を連ねる存在であることは間違いない。
その歴史に加え、生来の姿を取り戻した完璧な修復も加味して、RMサザビーズ北米本社は550万ドル~750万ドル、つまり約8億2000万円~約11億1700万円という驚異的なエスティメートを設定した。
ところが、実際の競売では「Reserve(リザーヴ:最低落札価格)」に及ばず、いわゆる流札となったのだが、オークションの直後に顧客と個別商談が成立したと発表された。
これほどの話題となった個体ゆえに、購入者の素性や販売価格が明るみに出る恐れのあるオークションでの取り引きを避け、秘密裏に入手する。この種の超有名(≒超高価格)な車両のビジネスでは、比較的多く見られる事例のようだ。