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「ミウラ」には遠く及ばず…4台しかないフェラーリ「デイトナ」でも約8900万円で落札! 英国貴族をときめかせたストーリーとは

47万7500ポンド(邦貨換算約8900万円)で落札されたフェラーリ「365GTB/4 デイトナ」(C)Courtesy of RM Sotheby's

プレキシ+右ハンドルのデイトナ

2023年11月4日、RMサザビーズ欧州本社が本拠地であるロンドンの古城「マールボロ・ハウス」で行ったオークション、その名も「LONDON」において、フェラーリ「365GTB/4デイトナ」の希少な前期モデルで、4灯式のヘッドライトが特徴的な透明プラスティックカバーに覆われたデザインが魅力的な、通称「プレキシ」モデルの、さらに希少な英国仕様右ハンドル車が出品された。現役時代はランボルギーニ・ミウラやマセラティ ギブリとともに、「アウトストラーダの女王」と呼ばれ、世界最速を巡る熾烈な争いを展開したデイトナだが、現在のクラシックカーマーケットにおける評定額では、宿敵ミウラの後塵を喫することが多い。今回のオークションではどんな評価となったのか、これからお話しさせていただこう。

英国貴族をときめかせたフェラーリ

1968年に登場したフェラーリ365GTB/4は、1967年のデイトナ24時間レースで1-2-3フィニッシュを果たしたフェラーリに敬意を表して、自然発生的に「デイトナ」と命名され、マラネッロのラインアップの頂点に立った。

フロントに搭載される4.4L「コロンボ」V型12気筒4カムシャフトエンジンは352psを発生し、発進から時速60マイル(約100km/h)まで、わずか5.4秒で加速。大胆なドライバーのために、最高速度は時速174マイル(約280km/h)に設定された。

ロードテストの実測値で、宿敵ランボルギーニP400ミウラよりも3マイル速い最高速度をマークしたパフォーマンスは、ピニンファリーナのデザインでスカリエッティが製作した流麗でモダンなボディワークによって補完された。

初期のデイトナは、プレキシグラス製のノーズを備え、その後ろにヘッドライトが配置されていた。しかしこの魅力的な特徴は、約400台が製造された時点で、ポップアップ式のヘッドライトに取って代わられる。
この時代の右ハンドルの製作数がわずか158台であったことを考えると、右ハンドルの「プレキシ」デイトナがいかに珍しかったかは想像に難くない。

1969年のアールズ・コート・モーターショーの初日、マイケル・ピアソン子爵がホールを歩き回っていると、名門ディーラー「マラネッロ・コンセッショネアーズ」の出展ブースが目にとまった。彼の心に響いたのは、フェラーリ365GTB/4だった。子爵はその翌日にもう一度ブースを訪ね、その直前にキャンセルされてしまったオーダーを引き受けることにした。

彼に割り当てられたシャシーNo.は、#12853。「ロッソ・ボルドー・ディーノ」の素晴らしいエクステリアカラー、「ネロ(黒)」のコノリー社製レザーインテリア、ライトグレーのヘッドライニングという仕様だった。

また、オプションの純正エアコンディショナーを365ポンドの追加料金で選択し、注文総額は9114ポンドとなった。1969年10月の価格で比較すると、オースティン・ミニ850の新車価格が、わずか569ポンドだった時代の話である。

史上4台目に作られた右ハンドルのデイトナの落札価格は?

シャシーNo.#12853は、1969年9月3日にフェラーリによって正式に完成されたと記されている。これは4番目に製造された右ハンドル車であり、最初期の生産分であるため、希少で望ましいプレキシガラス製ノーズが装着されていた。また、イギリスへ最初に入国したデイトナの1台であったと考えられている。

10月30日にピアソン子爵は、フェラーリの最も古い正規代理店のひとつである「マラネッロ・コンセッショネアーズ」から、この時代のフェラーリを慢性的に悩ませていた労働争議によって、シャシーNo.#12853の引き渡しが遅れているという知らせを受け取った。そしてマラネッロからの車両引き取りは、彼の友人でレーシングドライバーのアラン・ド・キャドネが担当することに。

ストライキが続く中、フェラーリ本社は12月1日、シャシーNo.#12853には赤いカーペットが敷かれてしまい、注文どおりの黒いカーペットは取り付けられない旨をマラネッロ・コンセッショネアーズに伝えている。さらにこの手紙には、ピアソンの要望どおりネロ(黒)のシートを装着していることが記されている。

年が明けて1970年の2月2日、ようやくフェラーリはマラネッロ・コンセッショネアーズに工場出荷時の請求書を発行。その25日後、ピアソンへの請求書が発行され、子爵から正式に車両代金が支払われた。
そこでド・キャドネは、デイトナを受け取るために即日マラネッロに派遣され、3月4日にロンドンに戻ってきた。そして3月30日、彼はピアソン子爵への納車に備えて洗車+ワックスがけを行うとともに、マラネッロ・コンセッショネアーズでの初回点検整備を手配している。

その後のシャシーNo.#12853は、1980年にパトリック・リンゼイの手に渡り、1986年1月に彼が亡くなると、ロンドンのフランシス・トンプソンが手に入れた。さらに著名なコレクターにしてレーサー、日本のコレクターとも交流のあったニール・コーナーの手にわたり、1987年後半には「MSDモーター・カンパニー」社のものとなった。

そして1990年2月8日、このデイトナはオークションで落札されたものの、新しいオーナーに引き渡されるまでに事故に巻き込まれ、オフサイドのフロントコーナーが損傷。イタリアでフルレストアされ、新オーナーに引き渡されたのは3年後になってしまう。またこの時のレストア以降、ボディカラーは「ロッソ・ボルドー」から「ロッソ・コルサ」にリペイントされた。

1998年7月、この365GTB/4はR・エルスモアによってオークションで落札された。彼は2001年3月までこのフェラーリを所有し、その後個人ディーラーに売却された。

2003年後半には、シャシーNo.#12853はデンマーク在住の愛好家の手に渡り、2004年1月にデンマークに輸出された。かの地で10年間の所有のあと、フェラーリは英国に戻り、現在のオーナーが入手した。

現オーナーの管理のもと、このデイトナは「フェラーリ・クラシケ」の認定プログラムを受け、2015年12月9日に、おなじみのレッドブックが発行された。クラシケ認定について、現オーナーから提出された請求書は、1万2000ポンドを超える費用を投じたことを証明している。

このデイトナは、現時点においてシャシー/エンジン/トランスアクスルともにマッチングナンバーを維持している。車体はロッソ・コルサで仕上げられ、赤いカーペットの上にファクトリー仕様の黒革レザーシートが置かれている。

4番目に製造された右ハンドルの365GTB/4デイトナであることに加え、多くの著名なコレクターに所有された魅力的な歴史を持つ。また、フェラーリ・クラシケ認定を受けたこのデイトナは、英国のフェラーリ・コレクターやエンスージアストにエキサイティングな機会を提供する。

RMサザビーズ欧州本社では、そんな触れ込みとともに48万ポンド〜54万ポンドという、現在の市場価格を反映したエスティメート(推定落札価格)を設定。そして11月4日の競売ではエスティメート下限にちょっとだけ届かない47万7500ポンド。日本円に換算すれば約8900万円で、落札の小槌が鳴らされることになった。

円安の為替レートゆえに、日本円換算ではかなりの高額であるかにも見えるが、英ポンドの落札価格自体は、以前に比べると少し落ち着いたかにも映る。それでも、P400SVを筆頭とするミウラの相場との差は、まだまだ狭くはならないようだ。

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