四半世紀の時を経て復活したブガッティ・ブランド
1909年の創業以来「自動車を表現媒体とした総合芸術」という、自動車史上まれに見るユニークなビジネススタイルで世界に君臨したブガッティだが、第二次世界大戦終結ののち、開祖エットレ・ブガッティの逝去にともなって一旦は歴史の幕を降ろすことになった。しかし1980年代中盤になると、自動車界における世界最高のブランドの復興を目指すべく、エットレの母国であるイタリアに生を受けた実業家、ロマーノ・アルティオーリが始動した。「第2期ブガッティ」とも呼ばれるこの時代、ブガッティの日本事務所である「ブガッティ・ジャパン」に勤務した経歴をもつ筆者が、栄枯盛衰のストーリーを語る。
ブガッティ帝国の復活を目指して
1987年、イタリア北部エミリア・ロマーニャ州モデナ近郊の小さな町、カンポ・ガリアーニに設立された「ブガッティ・アウトモービリ」社は、1991年に名門「ブガッティ」の名を冠した超弩級スーパーカーをデビューさせると発表した。1991年といえば、第1期ブガッティの開祖エットレ・ブガッティ(EB)の生誕110周年にあたることから、そのスーパーカーは「EB110」と呼ばれることになる。
この驚天動地のプロジェクトの首脳陣は、経営面は財務のスペシャリストたるマーク・ボレル会長。技術面では元ランボルギーニでカウンタックを手がけた天才的エンジニア、パオロ・スタンツァーニ副社長がそれぞれ担当すると発表されてはいた。しかし、新生ブガッティ社の実質的オーナーは、スバルとスズキの総代理店ネットワークをイタリアおよびドイツの一部地域にて展開し、大成功を収めていたロマーノ・アルティオーリであった。
またアルティオーリはEB110を製作するブガッティ・アウトモービリ社と並行して「エットレ・ブガッティ」社をオーストリアとの国境にほど近いボルツァーノ近郊に設立。開祖エットレのごとくアパレルから時計、銀食器、陶器などのあらゆる商品を自社でデザインし、ブランド化するという企業展開を試みようとしていた。ロマーノ・アルティオーリの夢は、かつてエットレの興した「ブガッティ文化」を、20世紀末に完全再現する、という壮大なものだったのである。
現代に至るハイパーカーの先駆け
鬼才スタンツァーニが、まったくのゼロから設計したEB110は、20世紀の自動車テクノロジーの粋を集めた、究極のハイテク・ハイパースポーツであった。ボディ/フレームからエンジン/駆動系に至るまで、革新のテクノロジーがふんだんに投入されたこのモンスターは、それ以前のスーパーカーの代表格、例えばフェラーリなどよりも遥かにハイレベルなテクノロジーと精度が追求されていた。
ボディ/フレームは、この時代ではまだ希少だったカーボンモノコック。3500ccのV型12気筒4カムシャフト60バルブという緻密を極めたエンジンには、さらに低中速域のトルクを補うべく、じつに4基のIHI(石川島播磨工業)社製ターボチャージャーを装着。スタンダードに相当する「GT」で560ps、高性能&ライトウェイトバージョンの「SS」では610psという途方もないハイパワーを発揮した。そして、のちに「マクラーレンF1」によって破られるまで、市販車では世界最速となった351km/h(SS)の最高速をマークするなど、そのパフォーマンスは当時のスーパーカーの頂点を大幅に上回るものであった。
しかも、フルタイム4WDシステムによって高度なハンドリングを達成しつつ、あらゆる路面状況下における素晴らしいスタビリティをも確保したEB110シリーズの誕生は、その直前まで世界のスーパースポーツの頂点の座に君臨していたフェラーリ「F40」やポルシェ「959」などの名作たちを、一気に旧世代の遺産へと追いやることとなってしまう。それはまさしく、現代に至るハイパーカーの先駆けだったのだ。
一方ボディデザインは、開発初期にはランボルギーニ「カウンタック」やチゼタ「V16T」などの作品で、すでに巨匠の地位を得ていたマルチェロ・ガンディーニ氏に委ねられたものの、彼のもとで出来上がった試作モデルは「ブガッティのブランドイメージに合わない」と判断されてしまったことから、比較的早い段階で放棄。正式発表を迎える直前に、ブガッティ社の副社長でもある建築家、ジャンパオロ・ベネディーニが主導する社内デザインへと大きく軌道修正されることになった。
いっぽう、それまで副社長のポジションを与えられていたスタンツァーニは、インドネシアの財閥メガテック・グループが裏で糸を引いていた……? とも噂されたクーデターに連座。自らがブガッティ・グループの社長になろうとしたことからアルティオーリの逆鱗に触れ、あえなく解任。後継の技術部門マネージャーには、フェラーリF40の開発を指揮したことで知られるニコラ・マテラッツィが就任することになる。
そして、このような人事のもたつきなどの影響も受けた結果、EB110の開発は大幅に遅れ、正式な生産モデルのデビューは、1991年のパリ・デファンスにおける発表セレモニーまで持ち越されてしまったのである。
他社にエンジニアリングを提供するビジネスも視野に入れていた
EB110をデビューさせたのちのブガッティ・グループは、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いを見せていた。1993年にはアクティブ・サスペンション技術などのテクノロジーを持つ英国の名門ロータス・カーズ社を買収。また、マテラッツィ技師の上位にあたる技術責任者として、フェラーリ出身の名匠、マウロ・フォルギエーリ技師を招聘した。
歴史の浅いブガッティ・アウトモービリ社には、EB110を当時最高の技術の結晶とせねばならない理由があった。アルティオーリが真に目論んでいたのは、ポルシェやロータスのように、グループとは関連を持たない世界各国のメーカーのエンジニアリングを請け負うこと。ブガッティ・ブランドのみならず、他社にエンジニアリングを提供するビジネスを展開する目的があるとされていたのだ。
実際、ブガッティのエンジニアリング部門は短い活動期間ではあったものの、その成果は決して少ないものではなかった。例えば、公式には発表されてないが、ロータス「エスプリ」に搭載されたV8ツインターボエンジンは、カンポ・ガリアーノ本社にてアウトラインが描かれたもの、というのがわれわれスタッフの共通認識であったほか、ロータス「エリーゼ」に近いサイズ感を持つライトウェイト・スポーツカーのスケッチも、筆者自身が1993年12月の段階で、カンポ・ガリアーノ本社チェントロスティーレ内のスタジオにて目撃している。
しかしブガッティの夢の綻びは、その以前からすでに始まっていたようだ。1992年の末頃からようやく正式なデリバリーが開始されていたEB110は、標準型に相当するGTと高性能版SSの2本立て。販売価格は日本国内で4980/6120万円(その内1000万円はパッケージ保証費用)に達する超高級車だったが、驚くほどに高価になってしまった現代のハイパーカーと比べると、むしろリーズナブルに感じられるかもしれない。
一方、ブガッティ復活プロジェクトの発足当初は好況にあった世界各国の経済状態も、この時期には急速に後退しており、EB110の売れ行きは予想を大きく下回ってしまうことになる。例えば日本に正規輸入されたEB110は、9台のGTと2台のSS、合わせて11台に留まってしまったのである。