まったく運の無い奴と呼ばれたレーサー「マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュ」
1930年代に「まったく運の無い奴」と呼ばれたメルセデス・ベンツのレーサー、マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュ(Manfred von Brauchitsch)はチームの問題児でありました。しかし多才でひらめきがあり、メルセデス・ベンツ シルバーアロー誕生のきっかけをつくったのも彼でした。今回はその彼の第二次世界大戦以降の活躍などにスポットライトを当ててみました。
第二次世界大戦後の活動
第二次世界大戦がはじまるとフォン・ブラウヒッチュも兵役検査を受けたが、レースで負った数々の怪我から従軍することは免れた。そのため、1940年から1943年にかけてハインリッヒ・コッペンベルグ(ユンカース航空会社の新経営者)の秘書となり、1944年から1945年にかけては軍需省のコンサルタントとして働いた。
ただし戦後は、旧高級軍人の家系ということがフォン・ブラウヒッチュには不利に働き、困窮を強いられることになった。名声があったことから、戦後直後は実業家と組んでオートバイのレースを主催/監督して一時的に成功したが、1949年にはそれも長続きはしなかった。
1950年頃に、ダイムラー・ベンツ社がレース活動を再開しようと動きはじめ、フォン・ブラウヒッチュも自分を再び採用するように必死になって売り込んだ。しかし、ダイムラー・ベンツ社はフォン・ブラウヒッチュの年齢が50歳近くなり、酒による衰えもあったのでレーサーとしての見込みがないと判断を下している。
東ドイツへの亡命とその後の活躍
生活に窮したフォン・ブラウヒッチュは旧東ドイツ社会主義統一党(SED)のヴァルター・ウルブリヒト(国家元首)をはじめとする共産主義者達に壊柔される。東ドイツの出版社が彼の自伝・Kampf um Meter und Sekunden(数メートル、数秒の戦い)を買い取り、その印税でフォン・ブラウヒッチュはバイエルンに別荘を購入に至るまで一財産を築いた。
しかし、共産主義勢力に取り込まれたフォン・ブラウヒッチュの動向は西ドイツ当局に厳しく警戒され、幾度も追及を受けることになった。そして、1953年9月30日に共産主義者として逮捕され、半年間留置されることに。1954年には保釈され、その裁判が進められようとしていた矢先、1955年初めにフォン・ブラウヒッチュは突如東ドイツに亡命した。
高名なフォン・ブラウヒッチュの亡命は東ドイツ政府から歓迎され、1957年設立された全ドイツモータースポーツ協会(ADMV)の役員を任され、その後は同国のオリンピック委員会の首脳となり、東ドイツで特権階級の一員として余生をエンジョイした。特に、この時の貢献により、フォン・ブラウヒッチュは1988年に国際オリンピック委員会(IOC)からオリンピック功労賞を授与されている。
このため、ある程度の行動の自由が認められ、西ドイツを訪問してメルセデス・ベンツの各イベントに積極的に参加することがあった。また、旧友のレース仲間と再会しその友情を温め活発に活動。1985年、SED中央委員会書記長(旧東ドイツ社会主義統一党)からは「国家間友好の星」メダルが贈与された。特に、1986年、ジンデルフィンゲンで彼のメルセデス・ベンツ300TEが納車されたのは記憶に残る。
メルセデス・ベンツクラシックのジャンパーを着たフォン・ブラウヒッチュは、1998年と1999年の2年連続F1ワールドチャンピオンになったミカ・ハッキネンと出会う。ウンタートウルクハイムの90度バンク内で、元レーサーと現役レーサーとが会ったことが好印象を与えた。
1989年ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統一された後は、年齢もあって隠居した。1995年にメルセデス・ベンツミュージアムで90歳の誕生日を祝福された。そして2003年、旧東ドイツだったテューリンゲン州シュライツ(ドイツ中東部)の自宅で死去。97歳の大往生であり、1930年代のメルセデス・ベンツチームレーサーの中では最も長寿を保ち、21世紀になってから死去した唯一の人物となった。
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マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュは1930年代のメルセデス・ベンツレーシングチームの問題児でもあったが、その性格は自分自身に率直であったと言え、筆者は何故か愛着を覚える。
レーサー時代は「まったく運のない奴」と呼ばれ、エースである名手ルドルフ・カラッチオラの輝かしい成績には及ばなかったが、常にレギュラードライバーの主力として活躍し1930年代のメルセデス・ベンツレーシング黄金時代を築いた功績は大きいと言える。引退後は東ドイツに亡命し、波乱に満ちた人生を送り97歳という長寿を送ったことも筆者は大いに感銘を受けたのだった。