独自のボディを持つマイバッハは評価されやすい?
2024年1月25〜26日、RMサザビーズがアメリカ・アリゾナで開催したオークションにおいてマイバッハ「62S」が出品されました。同車について振り返りながらお伝えします。
車名の「62S」はホイールベースを示していた
1909年にドイツで創業したエンジン製造会社にまで、その歴史をさかのぼることができるマイバッハ。ヴィルヘイム・マイバッハと、その子息であるカール・マイバッハによって設立されたこの会社は、第一次世界大戦以前には高級車の生産で高い評価を得てきたが、第二次世界大戦の終結までは一転、軍用のエンジンを製作する裏方の仕事に終始していた。
そして1952年、カール・マイバッハがマイバッハ社の経営から引退すると、同社はダイムラー・ベンツ社の傘下に収められ、その後MTU社として鉄道や船舶、あるいは産業用のディーゼルエンジンの開発や生産に携わるに至ったのである。
そのマイバッハという名前を、かつての高級車ブランドとして復活させようという考えが、当時のダイムラー・クライスラー社の中で持ち上がったのは、1990年代も半ばを迎えようとしていた頃だった。
今も変わらないことだが、メルセデス・ベンツの最上級サルーンといえば、それはいつの時代も「Sクラス」であり、このSクラスを超えるサルーンを、当時ほとんど知名度がなくなっていたマイバッハのブランドで発売することに抵抗があった首脳も、同社の中には少なからず存在した。
しかしメルセデス・ベンツには、Sクラスを超えた超高級サルーン、表現を変えるのならば、例えばロールス・ロイスなどに直接対抗する新型車は必要不可欠な存在だったのだ。マイバッハ・ブランドの復活が、初めてオフィシャルな舞台で宣言されたのは、1997年の東京モーターショーでのことだった。
ここに当時のダイムラー・ベンツ社は、Sクラスをベースとしたコンセプトカー、「メルセデス・ベンツ・マイバッハ」を出品。それは大きな話題を呼んだが、実際にプロダクションモデルのマイバッハが誕生するまでには、それからさらに5年近くの年月を必要とした。
2002年にデビューしたマイバッハは、スタンダード・ホイールベースの「57」と、ロングホイールベースの「62」の両モデル。この数字は全長を意味するもので、ボートなどの世界にも造詣が深い富裕層には馴染みがあるだろうということが、このネーミングの由来だった。
ホイールに縁石に接触したと思われる傷があるものの……
今回RMサザビーズのアリゾナ・オークションに出品されたモデルは、2005年のジュネーブ・ショーで発表された「62S」の2008年モデル。搭載されるエンジンは6Lに排気量拡大されたメルセデスAMG製のV型12気筒ツインターボで、その最高出力は550ps、最大トルクは1000Nmを発揮する。
車重は2800kgを超える重量級の1台だが、このV12エンジンに5速ATを組み合わせ、後輪を駆動するパワートレインは、つねにスムーズな、リアシートに着席するVIPを快適に移動させる走りを演出した。
出品車のマイバッハ62Sは、ブラックのフィニッシュで統一されたもので、インテリアでは高級なレザー素材やピアノ仕上げのウッドパネルに施されるホワイトのパイピングが効果的なアクセントとなっているのが分かる。リア・コンパートメントはまさにプライベート・ジェット機のような空間だ。シートは個別に調節可能なリクライニング機構を備え、ドリンク・チラーとグラスを備えたコンソールがその間にレイアウトされる。アメリカ仕様では珍しいというディビジョン・ウインドウ(キャビンの前後を独立した空間とするためのウインドウ)にはデュアルビデオモニターも装備されている。
オークションの時点で約1万7090kmの走行距離が記録されていたマイバッハ62S。ホイールには軽度の縁石に接触したと思われる傷があるものの、全体的には素晴らしいコンディションを保っている。
RMサザビーズでは10万~15万ドル(邦貨換算約1480万~2220万円)と、比較的幅広いエスティメート(推定落札価格)を提示していたが、最終的な落札価格はそれを超える17万9200ドル(同2650万円)にまで跳ね上がった。
アメリカのスーパーリッチは、メルセデス・マイバッハという、現在のサブ・ブランドとしてのマイバッハではなく、やはり独自のボディを持つマイバッハに興味を持っていたということなのだろうか。