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ロールス・ロイスの成功の陰にあったサクセス物語。機械の心を読める天才テストドライバー「アーネスト・ハイブス」とは?

ロールス・ロイス「シルバーゴースト1701」のハンドルを握るアーネスト・ハイヴス

機械の心を読み取れる天才エンジニア

ロールス・ロイスの性能や品質を理論ではなく「感覚」で支えたテストドライバーであり、エンジニアであるアーネスト・ハイヴス。彼の行った数々の実験により、ロールス・ロイスは「世界最高のクルマ」として人々に認知されることとなります。黎明期の技術開発に欠かせない重要人物であった彼は、どうような生涯を送ったのでしょうか。

チャールズ・スチュワート・ロールズとの出会い

アーネスト・ハイヴス(Ernest Hives/1886年~1965年)は幼少期から、新しい機械に魅了されていた。そして、1世代前のヘンリー・ロイスのように、教育を受けられなかったことを言い訳にはしたくなかった。ハイヴスはロイスと同じように長時間働き、同じように生き生きとした探究心を持っていた。ときには夜勤中に従業員の話を見聞きして、自動車の内部構造や操作に関する知識を着実に深めていったという。

彼はガレージの中で運転を独学し、14歳の若さで運転ができるようになった。さらには、勤務先の顧客にも運転を教えたのだという。1903年頃、ハイヴスがトラブルを抱えた運転手を手助けしたことがきっかけで、彼のキャリアは決定的な展開を見せる。そのトラブルを抱えた運転手があのチャールズ・スチュワート・ロールズだったのである。ロールズはハイヴスのスキルに非常に感銘を受け、すぐに個人的な運転手として迎えた。1903年初頭には、ロンドンの名門自動車ディーラー、CS ロールズ&カンパニーのメカニックに昇進し、どんどんその頭角をあらわし始めた。

しかし、運転することがハイヴスの天職であることに変わりはなかった。彼はCS ロールズ&カンパニーを退社し、1907年〜1908年には過酷さで有名なスコットランドドライバーや、ブルックランズで行われたミーティングでテストドライバーを務めた。

テストドライバーとしてロールス・ロイスに入社

その後、彼のキャリアの中で最も重要な転機が訪れる。テストドライバーとしてロールス・ロイスへ入社することになったのだ。しかし彼自身の証言によると、少なくとも当初は、その期待に大喜びしていたわけではなかったようだ。

「1908年にダービーに着き、駅を出たときには大雨が降っていた。ミッドランド・ロードを見上げると、あまりに殺風景だったので、ロールス・ロイスに行くか、それとも次の列車で帰るか、コインを回して決めた」

と、語っている。ハイヴスは新しく設立された実験部門に加わり、技術的に厳しい仕事も即座に解決することができた。彼の洞察力は、ロイスと彼のデザインチームにとって貴重なものだっただろう。実際、ロイヤル・オートモービル・クラブ(RAC)が1911年にロンドンからエジンバラを往復する耐久レースで、ドライバーに選ばれている。テストするクルマは「シルバーゴースト1701」である。

エクスペリメンタルスピードカー(速度実験車)として設計された「シルバーゴースト1701」は、トップギアに固定されたままロンドン、エジンバラの全行程794マイルを走破する耐久レースであっさりと優勝を飾った。ハイヴスの熟練したハンドリングにより平均時速20マイル(約32km/h)近くを出し、当時としては前代未聞の24mpg(マイル・パー・ガロン/換算すると約10.2km/L)を超える低燃費を記録。エドワード朝時代のイギリスの道路事情を考えれば、驚くべき数字だった。

この成績に続いて、ロールス・ロイスはヨーロッパで最も標高の高い道路を8日間、2600kmにわたって走るさらに過酷な「アルパイントライアル」に出場した。1912年にプライベーターカーが思うように成績を伸ばすことができなかったため、マネージングディレクターのクロード・ジョンソンは記録を塗り替えようと躍起になり、1913年のイベントでは3台の「シルバーゴースト」とそれぞれに厳選されたドライバーとメカニックからなる公式「ワークス」チームを結成。

メカニックのジョージ・ハンコックを従えて操縦した彼は、ほぼ無失点で完走し(ザルツブルクのパーキングエリアから出るときにエンストして1点減点された)、銀メダルを獲得した。

航空エンジンの開発にも携わるように

レースでの活躍と並行して、ハイヴスは研究開発にも重要な貢献を続け、シャシーのコンポーネントを破壊するまでテストできるツールを初めて導入した。また、ロイスの最新設計で製造されたテスト車両を公道でテストするという仕事も引き受けた。高速走行テストを行うのに理想的な場所としてフランスを選んだ彼は、パリとロイスの冬の別荘であるニース近郊のル・カナデルを結ぶルートを考案し、定期的に走行した。子どもの頃から自動車に憧れを抱いていた彼にとって、限りなく理想に近い仕事だったに違いない。

ハイヴスを知る人の多くは、彼の運転中の第6感についてこう語っている。

「前方の道路が空いているかどうか、コーナーを最速で通過できるラインか、あるいは減速する必要があるかどうかが本能的にわかっているようだった」

そしてハイヴスはキャリアを重ねるにつれ、自動車製品の開発だけではなくロールス・ロイスの航空エンジンの開発にも携わるようになった。1937年、彼は取締役兼工場長に就任した。彼の最も重要な役割は、自動車事業と航空エンジン事業を2つの独立した事業体に分割したことであり、これは今日に至るまで続いている。1946年には常務取締役となり、1950年には取締役会長となった。

同年、貴族称号を授与され、第1代ハイヴス男爵として並々ならぬ道のりを歩んだ。しかし、ガレージから道を歩み続けた彼はつねに控えめであり、ロイスが「ただのメカニック」と自称したのと同じように、控えめな表現で自らを表現した。ロールス・ロイス・モーター・カーズはそれには異を唱えたいという。

AMWノミカタ

天才エンジニアであるロイスの飽くなき探究心で出来上がった最上車がロールス・ロイスだと思っていたが、その裏では驚くような数々の泥臭い実験を行っていたことがわかる。そしてハイヴスのような「機械の心」を読み取れる天才エンジニアがいたからこそ、ロールス・ロイスの信頼と名声を得ることができたのであろう。ロイスもハイヴスも貧しい家庭に育ち十分な教育は受けられていないが、この絵に書いたようなサクセスストーリーの根底にあるものが「探究心」となにごとにも恐れない「チャレンジ精神」であることがわかる。そんなハイヴスの作り上げたクルマは、運転する歓びを提供してくれる存在として代々伝わっていく。

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