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ブランドは一朝一夕でつくれません、だから絶対にやめないし、これからも続けていきます【エンケイ株式会社代表取締役社長 三浦信氏:TOP interview】

エンケイ株式会社代表取締役社長 三浦信氏

自社ブランドとモータースポーツにこだわるENKEI

ENKEIの代表取締役社長に2023年に就任した三浦信氏。1981年に留学のために渡米、4年間の大学時代は美術学部に在籍していたという三浦氏は、学生時代にどんなカーライフを送っていたのだろうか。米国ならではのスケールの大きなエピソードから、どうしてホイールメーカーであるENKEIに就職したのか、三浦氏のインタビューを通じてENKEIがなぜ自社ブランドにこだわるのか、そしてモータースポーツを重要視しているのかなどについて迫っていこう。

三浦信氏のクルマ遍歴

JR浜松駅の改札を出ると、駅構内のデジタルサイネージで、ブルーのロゴと「ENKEI」の文字を見かけた人も多いだろう。ブルーは「知性」、ふたつの輪は「調和と共存」、伸びている円の動きでは「企業としての発展、活力」を表現しているというロゴは、無限を表す「∞(infinity)」のようでもあり、メビウスの輪のようにも見え、企業としての可能性を強く感じさせてくれる。また、モータースポーツファンならば、このロゴに抱くイメージは速さであったり強さでもある。

今回、ENKEIの代表取締役社長である三浦信氏のインタビューは、JR浜松駅のすぐ隣にあるアクトタワー26階の本社でおこなわれた。1985年に大学を卒業し、一旦帰国した三浦氏は、1986年に遠州軽合金株式会社(現・ENKEI)に入社。クルマ社会が発達した米国で青春を過ごした三浦氏、さぞかしクルマに対して強い思い入れがあっての入社かと思いきや、実はそうでもないらしい。ちょうどバブル景気前夜の時代、日本では大学生がクルマを所有することも珍しくなくなってきた頃に渡米した三浦氏は、どのようなカーライフを送っていたのだろうか。

「大学での日本人の先輩が乗っていたクルマを、600ドルで譲ってもらったんです、その先輩が帰国するので手放すことになって。おそらく先輩は1000ドルくらいで購入した中古車だったと思います。3.7L直6エンジンを搭載したプリムス ヴォラーレというクルマで、アメリカのビッグスリーがいわゆるコンパクトセグメントに進出していこうとする一番最初の頃のクルマだったと思います。2ドアのハードトップで、ルーフの後半は本革のようなビニールなんですね。ですからものすごくおじさんが乗るようなイメージでした。

このヴォラーレが私の最初に所有したクルマということになります。当時は1ドル240円の時代で、学生ビザと呼ばれていたビザで渡米したんです。勉学のために発行されたビザなので、学校の外に出てバイトすることが一切できないという事情があって、ものすごく切り詰めた生活をしてました、実家からの仕送りだけが頼りでしたから。

ただ、唯一稼ぐことができた場所が、大学構内で使う印刷物を発行する大学の印刷所だったんですね。その印刷物用のイラストなどを描かせてもらったりして、少しずつ貯金した600ドルで譲ってもらったというのが思い出ですね。ですから当然アフターのホイールやマフラーに替えようだとか、とにかく金銭的にそんな余裕はありませんでした。あくまでも移動手段の一つとして、手に入れたという経緯があります。そもそもアメリカは、クルマを移動手段の一つに考えられる方が多いですから。

このプリムス ヴォラーレには2年ほど乗ったんですけど、手放すことになったのは、トランスミッションが壊れてしまって、その修理に350ドルかかるということで廃車にしてしまったんです。600ドルで買ったクルマの修理に350ドルをかけるのもどうかな、と思いまして」

往復3200キロのふたり旅

移動手段として購入したというが、学生時代、しかも米国でしか経験できないロードムービーのような旅も三浦氏はこのプリムス ヴォラーレで味わったそうだ。それもジャック・ケルアックの小説『オン・ザ・ロード』のような弾丸トリップである。

「私が通った大学は、ドラマ『大草原の小さな家』の舞台にもなったカンザス州にありました。そこから大学の日本人の後輩とふたりで、グランドキャニオンまで行こうということになったんです。後輩はまだ運転免許を持っていなくて、片道1600kmぐらいですかね、途中2泊して3日間かけてグランドキャニオンまで旅したんです、すべて私の運転で。当時、1ガロン(約3.8L)80セントでしたから、ガソリンは非常に安かったんです。それでもガソリン代を節約するためにエアコンはかけずに窓を開け放しにして、往復3200km走ったのは、いまでも鮮明に覚えています。それで、カンザスまで戻ってきたら、トランスミッションから煙が上がってきて、住んでいる街についた途端にトランスミッションが変速できなくなったんです。そこで、知り合いの整備工場で診てもらおうということで、そこへ向かっている道中で停まってしまって……。後輩と二人でクルマを押して整備工場まで運んだのが、ヴォラーレの一番の思い出です」

先述の通り修理を諦め、初めてのクルマであるヴォラーレを廃車にした三浦氏は、1976年式のフォード サンダーバードを、これまた同じく500〜600ドルで譲ってもらうことになる。こちらは同じ大学寮に住んでいたタイ人の友人から譲り受けたもので、大学を卒業して他の大学に進学するということで、ちょうど手放すタイミングだったという。日本人留学生のだれもがクルマを所有していたわけではなく、必要なときは彼らにクルマを貸して、留学生仲間で半ばシェアして乗っていたそうである。

そんな三浦氏が大学を卒業するのは1985年。その冬に日本に帰国。たまたま縁あって遠州軽合金(現・ENKEI)を知った三浦氏を運命の女神は再び米国へと向かわせるのである。

若手で編成された「アメリカプロジェクト」

1985年冬に帰国した三浦氏。現会長である鈴木順一氏の面接を受けることになり、「アメリカに工場を出すことになったから、すぐ来なさい」と請われ、再び渡米したのが1986年。当時、GMのOEMホイールを製造するために遠州軽合金(現・ENKEI)は米国に進出したばかり。そこで営業担当課長という役職を拝命し、1996年まで米国で三浦氏は従事することになる。美術──しかも作品を制作することを学んでいた三浦氏、営業職という役割に抵抗はなかったのだろうか。

「ホイールのことを学んだのは入社してからです。学生の時分は絵描きになろうと思っていたわけですから、入社したらホイールのデザインとか将来できるのかもしれないという思いはありました。どちらかというと自動車部品業界で働きたいというよりも、アメリカなり国外で仕事がしたいという思いの方が強かったですね。ですから営業職でも抵抗はありませんでした。英語が多少達者だったこともあって……。

当時、アメリカでの取引先はGMのみだったんです。浜松で毎月ホイールを10何万本作って、アメリカに輸出していた時代です。それ自体も大変なことだったわけですが、プラザ合意でぐっと円高になるために、アメリカに工場を作ったほうが有利だとGMからお誘い頂いての米国進出となったわけです。

社内では“アメリカプロジェクト”と呼んでいたチーム編成で、米国に渡りました。15名ほどのチーム編成なんですけども、その8割が23歳から26歳ぐらいの若手だったんです。私もまだ23歳だったんですけれど、われわれのひと回り上の先輩に当たるリーダーは3名。それ以外は血気盛んな20代でした。米国進出だけでなく、この人選を決めたのも現会長の鈴木です。会社のこととか事業のこととか、まだあまり理解していない20代ですけれど、ただ猛烈に体力があるので無理しても働けるし、猛烈に遊べるっていう人間が一緒でしたね。同じ釜の飯を食べた当時のチームは、いま幹部社員だったりします。

当時の社有車はシボレー アストロだったのですが、米国の免許も持っている私が運転手なんですね。金曜日の夜はアストロのリアにみんなを乗せて街に繰り出し、土曜の朝に戻ってくるという……。そして次の日はみんなでゴルフに出かけるという、いまでは考えられないほど仕事も遊びも猛烈にやっていた時代でした。いまもインディアナの工場はOEMしか作っていませんが、当時の月産2万5000本がいまや23万本にまで増えています」

現在、アメリカ合衆国だけでなくタイやマレーシア、中国、インドネシア、フィリピン、ベトナム、そしてインドなどにも生産工場を設立しているENKEI。そこで生産されるホイールのほとんどがOEMであるが、われわれが知るENKEIのイメージは、モータースポーツであり、アフターパーツとしてのホイールブランドである。

ラリーから始まったモータースポーツ

ENKEIの名を世界に知らしめたのは、F1へのホイールを供給したことに始まる。現在も続くモータースポーツへの関わりは、ENKEIにとって、どのような意義があるのだろう。

「もともとモータースポーツはサファリなどのラリーが始まりです。泥んこのENKEIだったんです。それが、F1レースに実際に日本のメーカーとしてホイールを供給したのが1986年です。それから全日本F3000選手権、全日本GT選手権がはじまって、それらに供給をはじめました。1995年にはマクラーレンF1にもホイール供給をスタートしています。

1996年に帰国して5年後くらいでしょうか、欧州に向けてアフターの売り込みに積極的だった時期があります。そのとき、アポイントをとっていろんなところに飛び込み営業に回ったのですが、F1のおかげでENKEIというだけでホイールメーカーだとすぐに認知していただけたんですね。そういう意味では、モータースポーツは海外では名刺代わりになりますね。入社試験でもモータースポーツからENKEIを知ったという学生が多いですし、新入社員はモータースポーツの部門に何十人も社員が従事しているんじゃないかという印象をもっているようです。モータースポーツはいわゆる匠の世界ですから、そうではないんですけどね。でも、ENKEIを知っていただくきっかけには、十分になっていると思います。

「ENKEI」というオリジナルブランド

ENKEIといえば、「RPF1」や「NT03RR」といったスポーツイメージの強いホイールを思い浮かべる人が多いだろう。ホンダや三菱などで、国産自動車メーカーの足元を「ENKEI」ロゴの入ったホイールがセットされるスポーツカーさえあるほどだ。OEMとは違うアフターホイールについてはどのような姿勢で取り組んでいるのであろうか。

「ENKEIにとってアフターのホイールは売上の5%もないんです、実は。会長がENKEIのアフターを作って育ててきたんですね。自分たちでデザインして、適合車種やサイズも含めてすべてを考え、それで広告も制作して自分たちで売りに行くということをやってきたんです。売り上げとして5%しかなくとも、絶対やめてはいけないというのが会長の信念です。ですから、今でも企画会議に出席してくれるんです。

OEMの業界で自社ブランドがあるということは、実は他社との差別化でも優位なんです。自動車メーカーだけでなく自動車関連の企業に伺った際に、ENKEIといえばアルミホイールだと分かっていただけるので、差別化の武器になっていることは肌で感じています。ともかく知っていただいているというのは、ものすごくありがたいですよね。

そうしたこともあって、たとえばOEM関係でのディーラーオプション的なホイールについては、ENKEIのロゴが入っていることを望んでいただくことが多いんです。初期型NSX Rなどはホンダとの共同開発だったんですけど、スポーク部にロゴと社名を入れましょう、とホンダ側から提案されて実現しました。三菱のランサーエボリューションなどでもそうです、開発の方がラリー イコール ENKEIというイメージを持たれていて。自動車メーカーの側からリクエストされるということは、ブランディングがきちんとできているということだと思います。

ただし、こうしたブランド力は、一朝一夕では絶対にできません。一度やめてしまったら、もう取り戻すことができません。ですから、絶対にやめるべきではないし、これからも続けていきますよ」

これからNAPACに求めるもの

最後に、ENKEIが加盟しているNAPAC(一般社団法人 日本自動車用品・部品アフターマーケット振興会)に対して、期待していることを伺った。

「弊社のブランディングの話にもありましたように、アフターをやめてはいけないと思っています。ですから、ブランドをガッチリと守ってやってくというところを、業界全体として盛り上げていきたいですね。これは日本だけではなく、世界の市場を相手にして、日本のブランドを売っていくべきだと思います。たまたま私が米国市場の規模をよく分かっているからというのもありますが、あれほど魅力的な市場があるんだから、そこに出ていかない理由はないと思って、現在も進めています。

アメリカ、ヨーロッパだけでなくアジアも含めて、もっと世界を相手に活動するべきだと思います。間違いなく将来性はあると思いますし、商品競争力も日本ブランドは持っています。先日、弊社の寺田が蘇州GTショーに視察に行ったのですが、中国メーカーはまだまだ日本製品、日本ブランドを見てるという報告を受けています。ですからNAPAC加盟各社様が日本だけでなく世界を見て、世界に出ていきましょうということを──単独ではなかなか難しいでしょうから、NAPACでサポートしていく体制を作っていけるといいですね」

* * *

数年前から「デザイン思考」というのが見直されている。おおまかに説明すると、デザインに必要な思考方法と手法を利用してビジネス上の問題を解決していく手段である。アート(美術)を米国の大学で学んだ三浦氏であるだけに、現在の仕事に活かされているのかが気になるところではある。

「とくに大学で学んだアートの制作アプローチが活かされたということは、意識したことがありません。ただ、社内でのすべてのプロジェクトを作り上げていく達成感というのは、やはり美術も同じだと思うんです。絵を描き上げたときの達成感と同じです。物事を積み上げて作っていくプロセスという意味では、絵を描くのもビジネスでも同じじゃないかなと思います。最終的には自分の思い描いてるイメージへと導いていくという……。

その意味ではOEMというのは、短距離走じゃなくて、長距離走なんですね。ずっと走り続けなきゃいけない仕事なんです。こうした事情があるので達成感を得ることは難しいのですが、日々のタスク、プロジェクトを一つ一つ区切っていけば、それぞれに達成感というのは得られると思います」

大学では印象派を中心に学んだという三浦氏。インタビューの1週間前に大阪までモネの展覧会を鑑賞に出かけるほど、現在でも印象派の絵画が好きであるそうだ。印象派といえば、光(自然光)を分解して画布の上に絵筆で再構成するという表現方法。印象派の絵画を鑑賞するには、ある程度の距離を保って、画布の絵の具の反射光を網膜に映す必要がある。つまり、印象派の細かな技法を学ぶには至近距離のミクロの目で、そして作品そのものを味わうには離れてマクロの目で見る必要がある。これは間違いなくビジネスの分野にも応用できる理論であり、三浦氏の言葉の端々には、こうしたミクロとマクロの視点が常にクロスしていたのが印象的なインタビューであった。

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