1952年式 フォルクスワーゲン タイプ1“スプリットウインドウ”
「クラシックカーって実際に運転してみると、どうなの……?」という疑問にお答えするべくスタートした、クラシック/ヤングタイマーのクルマを対象とするテストドライブ企画「旧車ソムリエ」。今回は、「スプリットウインドウ」と呼ばれる最初期のフォルクスワーゲン「タイプ1」、通称「ビートル」を主役に選び、そのモデル概要とドライブインプレッションをお届けします。
悲しい歴史を乗り越えた、世界の国民車のはじまり
自動車史上最高の名車のひとつと称賛されるフォルクスワーゲン「タイプ1」、いわゆる「ビートル」は、もともとナチス政権の国民車構想としてスタートしたもの。しかもドイツ国民から募った積立金を資金に生産する計画もあっけなく反故にされ、すべて軍用車に転用されてしまうという悲しい歴史を背負っていながらも、第二次大戦の終結後には大衆の貴重な交通手段として、戦争で荒廃したヨーロッパ全土の復興のために大いに活躍したのは、もはや誰もが周知のストーリーといえよう。
国民車「KdFヴァーゲン」として1938年に発表されて以来、2003年をもってメキシコでの生産を終えるまでに、じつに65年もの長きにわたって生き長らえたVWタイプ1ビートルは、その間基本的なスタイルこそ不変だったものの、そこはドイツ車らしく、目まぐるしく改良が施されてきた。
まずは戦後間もない1945年、イギリス軍の管理下で生産開始された際には、KdF時代から受け継いだ985ccの空冷フラット4エンジンを搭載したが、すぐ1131ccに拡大。1954年からは1192ccに拡大した「1200」となる。
いっぽうボディについても、最初期モデルは左右2分割式のリアウインドウ(通称「スプリットウインドウ」)を与えられていたが、1953年モデル以降はセンターの支柱が取り払われた「オーバルウインドウ」に進化。さらにこの後、1958年モデルでは後窓は四角く大型化され、「スクエアウインドウ」と呼ばれる。
まずは西ドイツ国内から販売がスタートしたVWタイプ1は、戦後復興の大きな助けになってゆく。1947年にはオランダを皮切りに輸出も開始され、戦後のインフレも相まって事実上の壊滅状態にあった西ドイツ経済に、貴重な外貨をもたらしたという。
とくに最大の輸出先アメリカ合衆国では、広告業界に革命をもたらしたともいわれる広告代理店「DDB」社の斬新な広告展開もあって爆発的な人気を博しただけでなく、ある種の自由のシンボルとして評価を受け、本国ドイツとはまったく異なる、アメリカ独自の「VW文化」を形成するに至った。
また、極東のわが国にも大量上陸を果たしたVWビートルは。当初は2ドア車ながらタクシーとしても使用されるなど、日本の初期モータリゼーションの構築のために絶大な役割を果たしている。
そのかたわら、子どもたちからは「かぶとむし」と愛称され、「ワーゲンを3台見ると、なにか良いことがある」といった可愛らしいジンクスが日本全国の小学生の間で流行するなど、生活ツールとしての自動車の域をはるかに超えた、特別な愛情の対象にもなっていたのだ。
空冷フラット4エンジンは意外なほどに静か
今回の主役となったタイプ1ビートルは。空冷VWファン垂涎の「スプリット」時代最終期に生産された1952年式である。
ところが間近で観察してみると、同じビートルでも「オーバル」時代以降のモデルよりも第二次大戦前のクルマに近い、どこか荘重な存在感を漂わせているようにも映る。
アール・デコの面影を感じるダッシュボードや、ミッドセンチュリー的な軽妙さもあるデザインのシートなど、時代を感じさせるインテリアの設えも、のちのビートルよりも豪華に感じられる。
そして、華奢な見た目よりもずっとしっかりした感触のシートに腰を降ろし、圧倒的な精度を感じさせるドアを「カンッ」と閉じると、いよいよテストドライブの時が訪れた。
6V電装のせいだろうか、ちょっと弱々しいクランキングのあとにフラット4エンジンが始動すると、まずは意外なくらいに静かなことに気がつく。同じ時代の小型車にはあまり乗った経験もないのだが、たとえばフィアット「500トポリーノ」やモーリス「マイナー」などは、もっと騒がしかったように記憶している。
アクセルを踏み込んで回転を上げても、「バタバタバタッ」というお馴染みの空冷サウンドのピッチが速まるだけ。だから、助手席でレクチャーしてくださったオーナーさんとの会話も、さほど声量を上げる必要はなかった。
クルマとしての完成度と濃密な戦前車フィーリング、そして格別の多幸感
今回の試乗ルートは、横浜市内とは思えないほど長閑な田舎道。ここで30~40km/hくらいでドライブしているぶんにはまったく痛痒を感じさせられることもなく、よく粘る低・中速トルクを生かしてトコトコと走ってくれる。勾配の強い山坂道ではスピードの低下を強いられつつも粘り強く登ってゆくさまは、とても頼もしいものだった。
いっぽう、乗り心地は予測していたよりも硬めで、路面の荒れた田舎道ではピョコピョコ跳ねたりもするものの、ボディ剛性や組みつけ精度の高さのおかげで、車体全身がきしむような事態にはまったく陥らない。
また、この時代のステアリングギヤボックスはまだ旧式なボール循環式だったのだが、ステアリングは軽くて、しかもかなり正確。予想していたほどスローでもなく、この時代のものとしてはかなり秀逸なフィールである。
くわえてノンサーボのブレーキは、間違いなくかなりの踏力を必要としながらも、絶対的なスピードの低さも相まって、制動力そのものに不安を感じることはあまりなく、その感触も非常にシュア。つまりは、あらゆる面で1930年代末という実際の設計年次はもちろん、1950年代に生産されていたクルマであることを考慮しても、古さを感じさせられることはほとんど皆無に等しかったのだ。
ただし唯一設計年次を感じさせるのは、1速~4速までが完全ノンシンクロというギヤボックス。それでも、たしかにシフトダウンの際にはダブルクラッチが必須ながら、シフトアップはニュートラルでひと呼吸おきさえすれば、まるで抵抗を感じさせることなくスムーズに変速が可能だった。
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空冷VWについての知見では筆者などをはるかに上回るオーナーさんいわく、いわゆる「スプリット」と「オーバル」では、リアウインドウの支柱の有無以上に、ボディ各部のパネルやトランスミッションなどのメカニズムに至るまで、かなり大きな違いがあるとのこと。オーバルへの進化に際して、第二次世界大戦前の旧式なクルマから、1950年代最新の戦後モデルへと変貌を遂げることになったのであろう。
それでも、もとより戦前車とその乗り味が大好きな筆者にとっては、このスプリットの古臭いドライブフィールが、たまらなく愛おしく感じられてしまう。
そして何より感銘を受けたのは、VWビートル特有の多幸感が、このスプリットではより濃密に感じられたこと。子どものころ、街中を走るビートルを見て幸福感を覚えた世代のひとりだが、やはりステアリングを握れば、もっと幸せが感じられると実感したのである。
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