A30/A35/A40の戦後ベイビー・オースティン3兄弟とは
ヒストリック二輪車&四輪車の祭典「フェスティバル・オブ・サイドウェイ・トロフィー」。袖ヶ浦フォレストレースウェイで2024年5月26日に開催された春の回では、オースティン「A30」、「A35」、「A40」の戦後型「ベイビー・オースティン」3兄弟が22台集合し、「フライングAトロフィー」が開催されました。日本では知る人ぞ知る存在ながら、じつは英国では往年のF1王者たちがこぞって称える名車だったのです。
英国で戦後の小型大衆車のスタンダードとなった
米国のフォード「T型」と同じく戦前の英国において、その安価で十分なポテンシャルから、「ベイビー・オースティン」と呼ばれ小型大衆車のスタンダードとなったのがオースティン「セブン」だ。そして第二次世界大戦後、戦前のセブンと同様に、戦後の小型大衆車のスタンダードとなるようにと「ニュー オースティン セブン」として、オースティン「A30」が1951年のアールズコート・モーターショーにて発表された。
のちに「Aシリーズ」として小排気量エンジンの代名詞となる新開発のエンジンを搭載し、モノコック構造を持つなど他メーカーに比べ革新的で安価なA30は、その後エステートやバンといったバリエーションも増やしながら、22万3264台が製造された。
1956年にA30からバトンタッチされた「A35」は、それまでのBピラーにある拍子木式のウインカーから、前後にウインカーライトを備え、メッキのグリルはペイント。大きくなったリアウインドウなど外観を変更。加えてエンジンも803ccから948ccへと拡大されエンジンはパワフルになり、ワイドレンジになったミッションはダイレクト式からリモート式となりフィーリングも向上する。
1962年にサルーンの製造が終わるも、バンは1968年まで製造され、総計35万4609台が造られた。
また、ピニンファリーナのデザインにより、これまでと違ったモダンなスタイルとなったA40は1958年に登場。翌年に追加されたエステートの開口式テールゲートは、量産ハッチバックのレイアウトの先駆けとなった。
グラハム・ヒルは愛車のA35でモナコGPへも遠征
これらベイビー・オースティンは、モータースポーツでも活躍し、1958年に始まったブリティッシュ・ツーリングカー選手権(BTCC)では、「フライングドクター」ことジョージ・シェパードのA40が1960年のチャンピオンに輝く。
1962年と1968年のF1ワールドチャンピオンであるグラハム・ヒルは、チーム・ロータスのメカニックからドライバーへと「昇格」した1958年にエッソからのスポンサーフィー1000ポンドで、初めて新車を購入。それがA35であった。そして盟友ジョン・スプリンゼルらとさまざまな競技に出場するのだが、この年のBTCC最終戦のブランズハッチで、前を行くレス・レストンとロン・ハッチソンのライレー「1.5」が競り合ってる間をすり抜けて勝利したレースを、観客の熱狂ぶりは痛快だったと自伝にも残している。
グラハム・ヒルは競技だけでなく、世界中のサーキットにも愛車で転戦、F1デビューの1962年モナコもA35で行った。
ジャッキー・スチュワートやフランク・ウィリアムズも絶賛
3度のF1ワールドチャンピオンに輝いたジャッキー・スチュワートは、「初めて所有したからかもしれないが、すべてのクルマの中で、一番の喜びをもたらしてくれたのはA30だ」と語り、1976年のF1世界王者であるジェームス・ハントはベストハンドリングマシーンと称え、晩年までバンとサルーンの2台を愛用していた。
また、ウィリアムズF1チームの創設者フランク・ウィリアムズは「A35でレースをしていた時の楽しい瞬間を今も振り返ることができる」と、グランプリの頂点を極めた後にもインタビューで語っている。
「17歳になったばかりの頃、A35を速くしようとモディファイを始めたのだけど、間違ったことをすると、どういう結果になるのかを教えてくれた良い入門書だった」というのは、マクラーレン「MP4」などのデザイナー、ジョン・バーナードだ。
戦前のベイビー・オースティンがそうであったように、生まれながらの素性の良さはモータースポーツの第一線で歩む者たちをも魅了し、オースティンの目論見も見事に達成したのだ。
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そうした背景もあり、本場英国でのグッドウッド・リバイバルでも常連車種として多数参加、現在も観客を魅了し続けているのだ。今回、日本でもベイビー・オースティンの愛好家たちにより開催されたフライングAトロフィー。全国から集まった3兄弟の雄姿を画像ギャラリーにてご覧いただきたい。