アンダーステアが強い1台だった
モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載。今回は中村氏が免許を取得してから初めて購入したクルマ、ホンダ「1300 クーペ9 カスタム」について振り返ってもらいます。
16歳になると免許を取得することができた
初めて免許というものを取得したのは1968年のこと。当時は軽免許(1952年から導入)と言って、軽自動車は16歳になると免許を取ることができた。そして、私はその最後の世代。1968年9月に軽免許は廃止され、普通免許に組み入れられたために、18歳にならないと免許が取れなくなった。
私は8月生まれだったので、まさに首の皮一枚で繋がって、軽免許を取る資格があった。とはいえ終了までには3週間しかない。もちろん自動車学校になど行く時間はなく、一発合格を狙って鮫洲の試験場で試験を受けた。まあ、学科も実技もそれなりに自信があった。
というのも、実技試験はマツダの「キャロル」だったから、同じマツダの軽トラック「B360」を持っていた友人に頼んで必死で運転をした。もちろん無免許。まあ、当時はそんな時代だったと理解してほしい。
当然ながら学科は一発合格。肝心の実技である。こちらも軽快に難関を通り抜けて最後の車庫入れ。ここで問題発生である。キャロルのリバース位置は右手前。一方のB360は左上だったのだ。まあ、位置の違いだろうと右手前に入れるのだが、どうしてもリバースに入らない。
あとでわかったのは、操作の前にニュートラル位置からシフトレバーを「プッシュ」してから右手前だったのである。そんなこと当時は知らなかったから、ここで実技アウト! じつは気を取り直して翌々日にも試験場に赴いたが、やはり車庫入れでアウトであった。そりぁ4速に入ってしまうのだから無理である。
家族会議で決まったクルマはホンダ 1300 クーペ!
仕方なく2年間はバイクの免許を取ってバイクを乗り回した。そして晴れて18歳。自慢じゃないが、最短のわずか25時間で免許を取得できた。そして家族会議でクルマを買うことになった。父親は強硬にマツダ「ロータリークーペ」を押したのだが、私を含めた他の家族全員がホンダ「1300 クーペ」となり、あえなく父が撃沈して我が家の初めてのクルマはホンダ「1300 クーペ9 カスタム」になった。
ホンダ 1300は、ホンダが初めて小型乗用車市場に打って出るために作った自慢の1台である。DDACと名付けられた2重構造の空冷エンジンは重い。一方でその2重構造のおかげもあって静粛性は高く、実際高速道路(当時は出来立ての東名高速が厚木まで開通していた)でも、少なくとも直線を走る限りは非常に速いし、静粛性も高かった。ただ、もう誰もが御存知のことだが、とてつもなくアンダーステアが強い。箱根の下りで何度かハンドルを切ったまま直進し、ぶつかりそうになって冷や汗をかいた。
ホンダの謳い文句は「ナイセストカー」である。そんな英語はないのだが、ナイスの最上級である。フライトコックピットと称した、全体がドライバー側に傾けてレイアウトされたインパネデザインもナイスであった。何よりも軽々と8000rpmまで回るエンジンや、当時量産車ではあり得なかったドライサンプの潤滑方式を持ち、フィンを切ったオイルタンクがボンネットを開けるとその左端に鎮座していたのだった。
当時はボンネットを開けてオイルタンクを指し、「ドライサンプなんだぜ!」と自慢をしてみたものの、ほとんどの反応は「なんのこっちゃ?」であった。
リアボディを押してみると足まわりが「ぶにゃぶにゃ」
足まわりはアンダーステアを助長する、異様に柔らかなリアサスペンションのおかげもあって、乗り心地は良かったように感じた(他を知らなかったので)。そのリアサスペンションは、クロスビーム式と言って、リーフを釣るアームの支持がほとんど反対側にタイヤ近くに付く珍しい構造。リーチが長くキャンバー変化が少ないというのが採用の理由らしいが、とにかくリアを押してみると「ぶにゃぶにゃ」であった。
大いに惚れたのはそのスタイルで、ノーズのデザインは当時のポンティアックなどに似たデザイン。ところがセダンが登場した東京モーターショーに出た時のグリルデザインは、全然違っていた。どうも最初の「77」というセダンのグリルは違っていたようである。当時の写真があるから見比べて欲しい。
いずれにせよ、空冷にこだわりを持っていた当時のホンダは、F1も空冷で作り上げたがそれも失敗に終わり、とりわけ排ガスへの対応が難しかったのか、その後は水冷に軌道修正した。ホンダ 1300はその後「145」という名前に変わり(ボディスタイルは同じで)、当時の「シビック」と同じ水冷直4ユニットに変わった。排気量は1433ccとなり、145の車名はそのあたりから来ているのだと思われる。まあ、これも失敗作になってしまったが……。