ハイエンドのミウラ P400は、P400SVに匹敵する?
アメリカでは、冬の避寒リゾート地として知られているアリゾナ州スコッツデールでは、毎年1月下旬に「アリゾナ・コンクール・デレガンス」が開催されます。クラシックカーのオークション業界では名門として知られる英国ボナムズ社は、2025年1月25日にスコッツデールのスパ&リゾート施設でオークションを開催。今回はその出品車両の中から、世界最高レベルのコンディションを誇るランボルギーニ「ミウラ P400」を紹介します。
スーパーカーとは何か? を世界に示した傑作車
1964年、フェルッチオ・ランボルギーニは、高性能にして技術的にも洗練された「350GT」を擁してフェラーリへの挑戦をスタートさせる。でも、ランボルギーニをマラネッロにとって小さな厄介者から大きな脅威へと昇華させたのは、間違いなく現代のスーパーカーの始祖である「ミウラ」の登場だった。
1966年のジュネーヴ・ショーにてミウラ P400が正式にデビューする以前、ランボルギーニ車は同時代のライバルを超えるメカニズムで注目を集めていたが、どこか控えめなキャラクターを持っていた。しかし、闘牛のブリーダーとして有名だったドン・エドアルド・ミウラにちなんで名づけられたミウラの登場で、この状況は一変する。
1965年のトリノ・ショーではローリングシャシーが展示され、その輝きのヒントが初めて具現化する。とはいえ、畏敬の念を抱いた報道陣と一般大衆に披露される準備が整ったのは、翌年のジュネーヴ・ショーに向けて完成したボディつきのプロトティーポだった。
自動車の歴史に甚大な影響を及ぼした
テクノロジーの洗練さと複雑さは息をのむほどだが、若さゆえの高揚感がなければ、ミウラの誕生はなかったかもしれない。エンジニアのジャンパオロ・ダラーラ(当時29歳)、パオロ・スタンツァーニ(同じく29歳)、ボブ・ウォーレス(27歳)の3人は、勤務時間外のプロジェクトとして共同構想し、ダラーラがV12エンジンを横置きでミッドマウントしたボックス断面のプラットフォーム・シャシーの設計を主導。シャシーの設計が完了すると、ベルトーネの若きマエストロ、マルチェロ・ガンディーニ(当時27歳)のペンを介して、華麗なクーペのコーチワークが完成した。
同時代の「400GT」と同様、ミウラはランボルギーニのジョット・ビッザリーニが3.5Lとして設計した4カムV型12気筒エンジンの4Lバージョンを使用。英国アレック・イシゴニス博士のBMCミニにインスパイアされたという一体型ギアボックスを備えていた。最高出力350bhpを誇るミウラは、デビュー当時、世界最速の市販車だった。
ミウラのように自動車の歴史に甚大な影響を及ぼしたクルマは、極めて少ないだろう。横置きミッドシップV12と魅惑的な内外装を備えたミウラは、自動車にスタイルとパフォーマンスの新たな道を切り拓き、「スーパーカー」とは何かを世界に示したのだ。
アメリカで栄光の歴史を歩んできたミウラ P400
このほどボナムズ「Scottsdale 2025」オークションに出品されたミウラ P400は、1967年夏に生産されたシャシーナンバー「3057」で、37番目に完成した生産車として知られている。
ファーストオーナーのベン・ジョンソンは、イタリアを旅行していたアメリカ人とのことで、サンタ・アガータ・ボロネーゼの本社工場から直接自慢の新型ミウラを引き渡された。彼は、このクルマとともにヨーロッパ周遊に出かけるという人生最高の喜びを享受したのち、アメリカに持ち帰ったと伝えられている。
ところが最高の喜びもつかの間、悲しいことにジョンソン氏は帰国後まもなく他界。新車のミウラは1970年代の大半を、倉庫で眠ることになってしまう。
1978年にディーン・アバーマン博士が救い出した時点で、シャシーナンバー「3057」の走行距離はわずか2464マイル(約3942km)に過ぎなかったが、2代目オーナーのアバーマン博士はその後25年間、愛車となったミウラを定期的に路上で走らせた。
メンテナンスは、ランボルギーニのスペシャリストとして知られたジェフ・ステファンに任せるとともに、大きな誇りをもってこのミウラ P400をさまざまなイベントに出品させてゆく。彼の冒険は西海岸界隈ではよく知られており、週末にはミウラに乗ってメキシコまで出かけていた。1992年の「サンタ・バーバラ・コンクール」ではクラス最優秀賞を受賞し、「イタリアン・スタンピード」なるパレードイベントにも何度か参加。くわえて『Thoroughbred & Classic Cars』誌2000年7月号の表紙も飾っている。
独立潤滑式ドライサンプシステムにアップデート
アバーマン博士の所有していた時代、基本的にはP400のオリジナルが保持されていたそうだが、唯一「P400SV」仕様の独立潤滑式ドライサンプシステムにアップデートする改造が施された。そして2015年8月のボナムズ「クエイルロッジ・オークション」にて、1978年に博士に譲渡されて以来初めて、このミウラ P400がクラシックカー・マーケットに売りに出されることになった。
そのオークション当日、のちに新しいオーナーとなる人物(今回のオークション出品者)は、ランボルギーニ界のレジェンド、テストドライバー兼エンジニアであったヴァレンティーノ・バルボーニと同伴していたとのこと。このときバルボーニは、P400こそ「ドライバーズチョイス」であることを示唆。ミウラとしてはもっとも軽量なのにP400SVとほぼ同等のパワーがあり「速く走りたければP400を選ぶべき」と現オーナーに語ったと伝えられている。
また、バルボーニ氏はシャシーナンバー「3057」が非常にオリジナルであり、オリジナルのアルミ合金製ボディワーク、各ガラス、メカニカルコンポーネンツ、そしてアバーマン博士の愛用中に使用されたのと同じような小さな改造ポイントしかないことを指摘し、このミウラ P400のコンディションに賛辞を送ったと伝えられている。
世界最高レベルのレストア、オリジナル性も充分ながら……
シャシーナンバー「3057」は、充分という以上のコンディションを誇っていたにもかかわらず、さらなるオリジナルに戻すことを決意した新オーナーは、アメリカ国内でもっとも有名なミウラのスペシャリストたちを集め、費用を惜しまないレストアを行うことにした。
「ミスター・ミウラ」と呼ばれるジェフ・ステファンのほか、プロジェクトを監督するのは、かつてのレジェンド、ゲイリー・ボビレフのもとで修行を積んだ「デビー・モーターズ」のデビー・シデラ。さらに「パーマー・コーチワークス」のアンディ・パーマー、「ホット・ロッド・アンド・ホビー」、「エド・ピンク・レーシング・エンジンズ」というドリームチームにくわえて、パーツ調達にはイタリアの「BBスタイル」も参入した。
アンディ・パーマーは、シャシーとボディに構造的な改良を加え、パネルフィットを改善。徹底的にストレートなボディラインを実現した。
いっぽうシャシーのコンポーネンツは、ジェフ・ステファンが「ランボルギーニ・ポロストリコ」から直接調達した部品を使って、オリジナルのナンバー入り「アームストロング」社製ショックアブソーバーと5速トランスアクスルを含めてリビルトされた。
さらにBBスタイル社は、ブラックのシートとドアカード、ブラウンのコンソールとダッシュボード、カーペットをオリジナルのイタリアのサプライヤーから調達し、新車として出荷された際の仕様でレストア。ミウラ誕生50周年記念に特別に製作されたピレリ社製専用タイヤに至るまで、細部に至るまで抜かりはないとのことである。
潤滑システムはオリジナルのP400仕様に戻された
オリジナルのエンジン(No.1190)はフルリビルトされ、内部もアップデートされている。鍛造のショートスカートピストンが嵩張る純正の鋳造ピストンから換装されたほか、P400SV用のドライサンプ機構は取り外され、潤滑システムはオリジナルのP400仕様に戻された。
そして、これら内部のアップデートにより、エンジンはオリジナルの350bhpを大幅に上回るパワーを発揮したうえに、現オーナーは豊富なレース経験を活かして、P400SVの基準をはるかに超える構造的な改良を施したレストアの利点を最大限に活かし、見事なハンドリングを実現したという。
2016年のレストア直後、オーナーはミウラの50周年記念イベントが併催された「ザ・クエイル・モータースポーツギャザリング」に合わせて、ショーサーキットに乗り込んだ。これまでで最大のミウラが集まる中、シャシーナンバー「3057」は「ベスト・レストアード・ミウラ賞」に輝いた。同年の「コンコルソ・イタリアーノ」では、「ベスト・ミウラ賞」、「ベスト・ランボルギーニ」、そして最高賞の「ベスト・イン・ショー」の三冠を受賞する。
これらの輝かしいコンクール受賞歴に基づき、「アウトモビリ・ランボルギーニ・アメリカ」はシャシーナンバー「3057」に、クラシック・ランボルギーニにとって最高の栄誉である「ブル・アワード」を授与。さらに2023年8月、「3057」はモントレー・カーウィークのコンコルソ・イタリアーノにて、再びベスト・ミウラ賞とベスト・イン・ショーを獲得した。
ちなみに、これは「ミスター・ミウラ」ジェフ・ステファンにとっての最後のフルレストアプロジェクトであり、彼はこれが自身の最高傑作であると公言しているのだ。
ボナムズ社はこの来歴と最上ランクのレストア、そしてオリジナル性の高さを鑑み、220万ドル~280万ドル(邦貨換算約3億2900万円〜約4億1900万円)という自信たっぷりのエスティメート(推定落札価格)を設定。これは同じミウラでもP400SVのマーケット相場価格をも上回るもので、P400としては記録的な価格設定だったといえよう。
ところが、迎えた競売では出品者側が期待していたほどにはビッドが伸びず、最低落札価格には届かないまま流札。現在ではボナムズ営業部門によって、元のエスティメートのまま継続販売となっているようだ。