ゴーカートのような1人乗り原付カー「AD-S50」
もともと「普通免許不要・原付免許で乗れる簡便なクルマ」という手軽さから、1980年代半ばに急速に普及した「原付カー」でしたが、1985年の道路交通法の改定により原付カーの運転には普通免許が必要となると、本来の「交通弱者のアシ」としての意味合いはいささか薄れることとなりました。そんな原付カーを取り巻く時代の変化の狭間に生まれた1台が、今回ご紹介する「AD-S50」です。
200台限定で販売された「公道を走れる大きな玩具」
かつては車検もなく大規模な生産設備も必要としないことから、一時期は大手メーカーから町工場レベルのものまで、大小さまざまな規模のメーカーが数多くの原付カーをリリースしていた。その多くは原付カーの本分とも言える「ミニマム・トランスポーター」として作られたものであったが、1980年代半ばにもなると法規の改定を見据え、それまでとは異なるアプローチの原付カーも生まれるようになった。
たとえば光岡自動車がリリースした「BUBU 505-C」がその一例。その見た目は1930年代のジャガー「SS100」を模したと思しきデザイン。原付カーがそれまでの「ミニマム・トランスポーター」という立ち位置から「公道を走れる大きな玩具」へと宗旨替えをして、新たな市場の可能性を探っていた時期にも思える。
その伝で言えば、この「AD-S50」もまさにそんな時代に生まれた「公道を走れる大きな玩具」と言えるだろう。アド・アートというメーカーが「200台限定」を謳ってリリースした原付カーだ。
おそらく車名のADはアド・アート、S50はホンダの「エスロク」や「エスハチ」にならって50ccであることを表していると思われる。ホンダ・スポーツの縮小レプリカとはひと言も謳われていないが、当時のカタログには「ぼくのノスタルジーを積んで、アイツが帰って来た」というキャッチコピー。このことからも、元ネタがアイツ(=エス)だということを匂わせている。
オプションで幌やハードトップもラインアップされていた
エンジンは当時のホンダ製スクーター用2ストローク49ccを流用し、バック機構付きのデフやサイドブレーキも備えている。ボディサイズは全長2495mm×全幅1290mmと、原付ミニカー規格ほぼ上限の数値となっており、またタイヤも軽自動車と同等の10インチ。さらに望めば幌やハードトップなどもオプションで用意されていた。
このあたりからも、このAD-S50が狙っていたユーザー像はミニマム・トランスポーターを必要としている交通弱者ではなく、「公道上で楽しめる乗用玩具」に興味を持つようなクルマ好きの粋人だったことが推察できる。取材車は赤いボディカラーだったが、カタログカラーには他に黄色と白も用意されていた。
懐かしの遊園地ゴーカートとは全くの別物
ちなみに、エンジンで走るホンダ・スポーツの縮小レプリカといえば、ホンダ系列の遊園地「多摩テック」などで走っていたゴーカートを思い起こす年配のファンもいらっしゃるかもしれない。ネット上などでも「AD-S50は多摩テックや鈴鹿で走っていたゴーカートと関係があるのでは?」といった記述も散見されるが、両車をあらためて見比べてみると全くの別物である。
はたして、実在するクラシックカーを原付カーのサイズでコミカルにミニチュア化する、というムーブメントは広がりを見せることなく、やがて潰えた。ミツオカはその流れを普通車の世界で継承することに成功したが、こちらのアド・アート製の「エス」は歴史の波間に静かに消えていった。
今回の取材に協力していただいたAD-S50のオーナーは、他にも数多くの原付カーを所有するマニアとしてこの世界では有名な水口 雪さん。AMWでも度々取材でお世話になっているエンスージアストだ。
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